人と同じが嫌いだったけど、今は『ふつう』でないことに苦しんでいる
私は昔から見た目について他人にとやかく言われることが多い。なぜなら私は『ふつう』に人と同じであることが一番嫌だったからだ。中学生のころにはクラスメイトのほとんどがロングヘアだったからという理由でベリーショートで過ごした。
誰かの見た目にコメントするということは、それが『ふつう』ではないから意見をしているということだと私は思っている。個人主義と呼ばれる現代日本社会においてそれぞれ考える『ふつう』は違っても、世論として存在する『ふつう』は未だ一貫性を保っているように思う。
どうやら私は『ふつう』でないことが『ふつう』とされる世界から、いわゆる『ふつう』の世界に戻ろうとして、今また『ふつう』でないことに苦しんでいるということに気づき、今筆をとることにした。
私の黒髪を就活や恋愛のためだと捉えられるのはなんだかモヤモヤする。自分が好きで黒髪にしているのに
ちょうど去年の今頃の私は髪をピンクに染め、耳の軟骨部分にはもちろん鼻や口にもピアスを開けていた。いわゆる「ガラが悪い」状態だった私は、男にナメられたくないという理由で1年ほどスカートをほとんど履かなかった。月に1回のペースで韓国旅行へ行き、クラブにも通い詰めた。夜遊びの代名詞みたいな人間だったと自分でも思う。
2020年5月頃、コロナによる緊急事態宣言の影響で外に出ることが少なくなり、美容院にも頻繁に行けず汚い金髪になった自分の髪を見かねた私は心機一転、髪を黒に染めた。最近ではスカートやワンピースも頻繁に着る。個人的には今の自分をとても気に入っているが、周りからの評判はすこぶる悪い。
「ピンクのときの方が個性的で可愛かったのに。何で黒なの?就活だから?」
「スカートなんてらしくないね、彼氏できたからでしょ」
確かに、今現在私が就活生なのは事実だし、彼氏ができたのも事実だ。でも私の黒髪を就活や恋愛のためだと捉えられるのはなんだかモヤモヤする。自分が好きで黒髪にしているのに、外部からの要因で仕方なく黒髪にしているような言われ方は良い気持ちがしない。
前へ進もうとする人の足を引っ張るのはもう、やめにしませんか
『ふつう』が嫌で、いわゆる『ふつう』でない人たちと仲良くなった。また私は『ふつう』でないと思われるようなブランディングを自らしていた。その結果、いわゆる『ふつう』になりたいと願う私の欲望は周りからの線引きによって拒絶されているように感じてしまう。
「あなたは『ふつう』でないことが『ふつう』だから、『ふつう』にはならないでね」
そう言われている気がするのだ。もちろん私は人の話を聞かないことで有名なので、そんなことを言われても従うわけはない。それでも少し、寂しい気持ちはある。
「最近変わったよね」という言葉。そこに含まれるニュアンスが肯定的なものであれ、否定的なものであれ、言われた側の人間はモヤモヤした気持ちになる。変化しない人間なんていない。全く変化しないということは、全く成長していないということではないだろうか。「最近変わったよね」にひとこと「いいね」と付け加えてくれるだけで嬉しい気持ちになれる。
誰かが最近変わったな、と思ったとき。その人の足を引っ張るよりも、変化を肯定的に捉えて「いいね」と言ってあげるだけでその人は自分を肯定できる。前へ進もうとする人の足を引っ張るのはもうやめにしませんか。