目に見える・見えない感覚は人それぞれだ。感じ方も受け取り方も人それぞれだ。
この世界は、人それぞれで溢れている。人それぞれで良さで確かに溢れている。性別の関係なく自由に恋愛しても結婚しても、宗教を信仰していても、良い会社で働いていても世界は回っていく。はっきりとこれは駄目、あれは駄目と教えられたわけではない。
それでも人は他人からの評価を気にして自然と社会や世界の流れに従ってしまう。大学へ行ったら良い会社に入れる。良い会社に入ったら幸せな未来が待っている。みんなと同じように動けば大丈夫。

そんな中で一体、自分の意志は、どこにあるのだろうか。人と違って良いはずなのにね。意志が異常に強いだけで人と違う生き方って言われるのが辛いし悲しい。自分の人生を切り拓くなら意志に勝るより他はないはずなのに。

クラスメイトも同僚も、一歩外に出ると恐怖の対象でしかなかった

私は学生の頃から、学校以外で先生や友達に会うことに、極端に近いくらい恐怖を感じてきた。子どもの頃からの仲の良い親友なら大丈夫なのだが、それ以外のクラスメイトや先生と会う事は苦手だった。
別に大した理由があるわけじゃない。場面緘黙症でもない。学校の中なら普通に喋っていた。ただ学校の外で会うのが嫌だっただけだ。スーパーで会っても親の後ろに隠れていたほどだった。
それは社会人になってからも、仕事以外に会ってしまう事に恐怖が消えなかった。職場の外で同僚や上司に会うのを極端なくらい嫌がった。

私の日常を覗かないで、素の姿を見ないで。そう願うばかり

それは、私にとってのごくありふれた日常を晒すことに、恐怖を抱いていたからだ。
私を知る上で、素の姿を覗かれる恐怖が消えなかったのだ。ただの一瞬の出来事でさえ、私は見られる事を嫌がった。だから私は、必ず最初に知り合いが居ないかを確認しながら買い物もしたし映画も見た。そうしないと恐怖が消えないから、そうするしかなかった。
職場の中でなら何を言われても別に嫌じゃなかった。もちろん、全部嫌じゃなかったと言えば嘘になる。職場の中でなら、職場の私を演じれば良いから少しは楽だった。でも外での私の一瞬を噂で、まるで私を全部分かっているかのように言われるのが嫌だった。
しかも私も言い返せない。弱かった。言い返すと別の話題に切り替わり更に上乗せされることを分かっていたからだった。

実際は、そんなに大きくは広まらないのに、私の中ではプライベートの事を言われただけで恐怖に値するのだった。料理の段取りが下手くそと目の前で言われたり、まるで陰口を言われたみたいな感覚にも自分一人で陥ったこともある。
被害妄想と言えばそうかもしれない。でもプライベートを自分の許可なく晒されると思うと、一気に恐怖感に陥る。もしかしたら、私は家族や友達のプライベートを、自分の意識していない思考で晒している可能性は十分にある。

もういっそ、取扱説明書に従って生きられたらいいのに

矛盾したような御託を並べる私は、私であるために自分の見える範囲内でプライベートを晒すことには抵抗はない。ただ、見えない範囲で晒される事は恐怖でしかない。SNSの使い方、言葉一つで人を殺めてしまう事もある、この世界だ。何があっても不思議じゃない。知らず知らずのうちに学校の外から職場の外へ、そして職場の外から社会へ世界へと晒されてしまう。

こんな生き辛い世の中を生き長らえる取扱説明書を開発してくれたらと切実に願ってしまう。取扱説明書に従って生きたとしたら、人それぞれという感覚は失われてしまうかもしれない。でも、それでも私は学校や職場の外での自分を許可なく晒される位なら開発してほしいと切に願ってしまう。

取扱説明書が、どれだけの効果や仕事をしてくれるかは私にも分からない。でも多少なりとも不必要な死を失くすことに尽力できないかな、と願ってやまない。