私の育ちはありふれた幸せで暖かい家庭とは程遠かった。
3歳頃物心がついた時から、母の感情の不安定さを悟った。
私の父と母は美容師で、同じ勤務先で出会い結婚した。
父も母もそれぞれ戦争体験の親を持ち、この道は起きるべくして起きたのかもしれない。
家から出してもらえず、カーテンを捲る事も許されず、「わんちゃん飼いたい」とずっといっていた私の元に来た白い犬のおもちゃと、ぬいぐるみ達と、毎日頭の中でお喋りをしていた。

私の母は酷い親だったのか?
いいや、違う。

容姿をきれいにしていた母はいじめにあった

時は少し戻り、私がまだお腹にいる頃。
両親は都内で貧乏暮らしをずっとしてきたが、出産を機に、母方の実家に近いアパートで暮らす事になった。廊下のある2階建アパートが4棟並ぶ、小さな集落だ。
そこで母はいじめにあった。

美容師時代からプレッシャーがかかることに弱く、母自身手の震えなど違和感は感じつつも、気丈に振る舞って過ごしていたが、孤独は人を更に追い込む。
母は美容師時代の名残りから、ケアしたロングヘアを一括りにし、化粧をして、セルフネイルをして、ゴミ捨てなど外に出ていた。
私自身生まれも育ちもこの地元、容易に察する。
嫉妬だ。気取っているように見えたのが気に食わなかったのだろう。

女の集団の嫉妬、男性には伝わらない孤独と恐怖、生活範囲内で嫌われ、
一歩外出れば常に立ち話の集団にシカトされ、初めての出産、育児に、誰にも頼れない、冷たく誰も労わない。
私が産まれてすぐ、近くの唯一の公園へ連れて行くのも拒まれ、公園へ行くことも、美意識も心の糸も、全てこの時切れたんだろう。
きっと赤ちゃんの私を見つめた近所の母親達の目は冷ややかなものだっただろう。
その冷たさは私自身小学生になり体感した。
母になっても幼い集団は幼いままだ。
メイクもしない、スウェットにサンダルに寝起きのままの姿だけが仲間なのだろうか、
瞬時に合わせられなかった母がイレギュラーなのだろうか。

そんな事情を知らない3歳の私は
怒鳴ったり泣き喚いたり、寝たきりだったり、喋り続けたりする母に、自分の気持ちを封印し、刺激しないよう全てを合わせる日常に変わっていた。

初めて他人と出会った場所、保育所で早速挫折した私

幼くして感情抑制を覚えた私が、最初につまづいたのが保育所という、初めての社会だった。
当時私が一番仲良かった子が、バッビくんという黒人の男の子。
その子のお誕生日会で出会ったファンタグレープという飲み物、
バッビくんの家によくお邪魔して食べた国籍料理の味。
のちに聞いた話だが、違いに敏感な子供たちは無垢な心のまま、バッビくんに残酷な仕打ちを浴びせていたそう。
バッビくんのお母さんは差別に苦しみ、私の母に打ち明け、誕生日会を開いたりどうにか繋がりを作ろうとしていたようだ。
私だけが、"変わった子"であり、そんな大人の苦労やバッビくんが感じていたであろう悲しみは気づかず、ただ純粋に好きでいつも一緒だった。

その子がお父さんの転勤を機に母国へ帰ってから、無垢な攻撃は私へ向かった。
大人に守ってもらう、大人と一緒にいる事で甘えられる、乳離れできてないような、社会に対する対応能力の低さや恐怖から、家という小さなコミュニティーから出された私が選んだのは、「先生といつも一緒に居る事」で、バッビくん以外の子とは上手く関われなかった。
一度出た感情を飲み込んで噛み砕いてから出すのが当たり前だった私にとって、周りの子達は威圧的でスピーディーに感じたのだ。
お遊びでも、お昼寝でも、いつも流れやみんなにゆっくり後から着いていく、そんな保育所生活はすぐに行きたく無くなった。
登園拒否を繰り返したが、いい子でいる習慣が身に付いていた為、母が困り果てるほどの反抗はできず、苦しみながら年を重ねた。

弟が生まれ、家庭環境が一変した

そして胸踊る小学校入学。
このタイミングで、母は弟出産。その後重度の肺炎を起こすことになる。
一年生でお姉ちゃんになり、また新しい社会に入る事にこの時は恐怖は抱いていなかった。
あの苦しみから解き放たれ、欲しいものが一度に手に入り、今までの我慢が報われたような、幸せに満たされていた。
そんな僅かな充実したひと時も過ぎ去り、同じく新しい環境に緊張していた同級生達もほぐれ、素が出始めていた。
また無垢な差別が表面化し出していた。

新しい社会への希望も薄まり始め、母の肺炎をキッカケに家庭環境も変化した。
父が仕事と育児を背負う身となり、不慣れや過労で、私が弟が欲しいと願った手前、よりお姉ちゃんでいようと張り詰めた気持ちでいた。
必死で今はまだ思い出せないが、父や祖母が動けない部分をカバーするように、自分自身のできなかった事、例えば長かった髪を洗う、パジャマに着替えるなど、強制的にその日からやらざるを得なくなった。
ただ気丈に「大丈夫」と笑っていたが、すぐに完璧にできるはずもなく、深夜までかかっていた。
弟の育児の手伝い、学校の宿題、寝起き、支度、全て完璧にこなそうとしっかりしていたつもりだった。

しかし、母が無事回復すると張り詰めていた糸がまた切れたように、自家中毒症(嘔吐を繰り返す病気)になり頻繁に点滴を受けるようになる。
点滴針をいちいち刺すのも負担が大きい事から、ギプスのように手は固定されていた。

母のヒステリーは加速し続けた

そんな忙しない一年が過ぎ、2年生に上がると、お姉さんお兄さんになった同級生達は、
グループを作る事を始めた。
その変化についていけず、また、さわさわした気持ちで過ごす毎日になった。
そして、戻ってきた母は、最初こそ弱々しく穏やかであったが、根付く心の病が徐々に頭角を表す。
唯一の救いは、私が勉強に関しては優等生でいられた事。
飲み込みは早く、特に美術や書道で賞を毎年貰っていて、金賞の常連者だった。
賞をとっても特別学校でも家でも褒められない、大人たちの中では習慣化していた。
特に先生が力を入れている生徒、書道を習っている生徒達にとっては、迷惑な存在だったんだろう。

そんな優等生のレッテルを貼られた私が違和感を覚え始めたのが小学5年生。
母のヒステリーはあれ以来加速し続けた。
私を後ろに乗せた自転車を放って、
ぶつかりそうになったトラックを車道を走って追いかけた日もあれば、私が玄関に入る前に理由もよく分からず最初から怒っており家を追い出される事も多かった。
唯一アパート集落内で、中立の立場でいた、同じアパート階の2つ先の「かなちゃんママ」に「家来る?」と声をかけられていたが、私はその時、知られてはいけないことを知られてしまった罪悪感から、かなちゃんママから逃げるように、深夜家に入れてもらえるまでアパート階段下の「秘密基地」で過ごす事が多くなっていた。

そんな怒りとハイテンションが続く日もあれば、1週間以上夕食だけは作ってくれるが、それ以外は寝続ける事もあった。
その上がり下がりに合わせて弟に危害が及ばないよう、意識を逸させるように、私がバリアになった気持ちで、母を包もうと努めていた。

私の持病、解離性障害との闘いの始まり

そんな忙しない、いつも通りの怒鳴り声で起きたある日、「何か違う」。
学校で過ごしている途中、「何か違う」。
変な違和感を感じていた。

私の友人関係は、この時2人仲良しの子達の中に一人ぼっちにならないように入れてもらう立場でいた。
その子達がいじめに加担した時は、凄く嫌な気持ちになりながら、グループだけどグループじゃないようなフリをしたようなずる賢さも備え、いじめのターゲットになった時には、「耐え忍ぶ自分には慣れている」そんなふうに、うまく過ごせていたつもりでいた。
その当たり前にいつの間にか使いこなしていた解離症状(生きている様で心ここに在らずな感覚)が急に使えなくなった。
魔法が切れたように、冷や汗が滲むような、気持ち悪い感覚に陥っていた。
今に思う、これが私の持病、解離性障害との闘いの始まりであった。

まだ序章に過ぎない、私のこの短き人生、
悪は何なんだろうか?ただの不運?必然?

…ただ事実、私が望み続けたのは「周りの笑顔」その一点。
その気持ちは揺らがず、今も持ち続けている。
偽善でも何でもない。普通を望んでも叶わない、そんな人生もある。
周りの笑顔を、本気で望み続ける幼い子供が成長すると、この悪夢のような病気に罹ってしまうのだとすれば、笑顔なんぞ望まぬ社会が健康的なのか。

「何が正しくて、何をどうしたら」
大人になったら解決すると思っていた。
しかし大人でも答えを持っていない人の方が多いんじゃ無いんだろうか。

私は過去も明日も病が待っている生涯を、
人の為に使い切るべく、
今日も答え探しの道へ歩を進める。