ふつうってなんだよ。いつも思う。
私は入社1年目からずっと会社を辞めたいし、辞めたい理由は大したものじゃない。もっと休みたい、それだけだ。働かずとも生きていける術さえあれば全力でその術にすがりたい。
けど私にそんな術はない。働いてお金をもらわないとのたれ死んでしまう。死にたくはない。
私にとって社会人をやるというのは、マズローの何とか階層でいえば下から数えた方が早いレベル。極端に言えば、死なないために働く。それが私の中の「ふつう」。とてもやっかいな鎖。
いつも思う。もっとブラックな会社なら、毎日罵詈雑言が飛び交い精神をいとも簡単に病んでしまえる職場なら。そうすれば堂々と胸を張って、正義のヒーローみたいに退職届を上司のデスクに突き付けられるのに。ついでに退職届と一緒にクソみたいな自分の甘ったれた根性も置き去りにして、盲腸みたいにスパッと切り離してさよならしたい。
私の考える「普通」の人なんてどこにいるんだろう
わかっている、これは自分の甘えなのだ。ふつう、若者はみな前向きでやりたいことや夢と呼べるものはないにしても、何とかやりがいや喜びを見出して日々頑張っているのだ。
雇ってもらっていることに感謝し、お金をもらう以上それを成果で返そうと頑張るのだ。それが普通なのだ、たぶん。
けど私はそうじゃない。やりたいことは日曜日の朝寝坊、遅めの朝ごはんと軽いショッピング、それだけだ。いや、さすがにそれは言い過ぎか。
けど、ここまで書いていてふと思った。そんな大層な人が日本、いや地球上にいるすべての働く人間の中にどれだけいるのかな。
夢や希望がある人、やりたいことがあってゴールから逆算して頑張っている人、目の前のお客様のためにひたむきに奔走する人こそが大層な人なのか、そんなに偉いのか。
いや待て自分。落ち着いて考えよう。お前はその大層な方々から「私は頑張っていて偉い、お前は目標もスキルもないから偉くない」って言われたことあるか?ない。
そもそも偉い偉くないってなんだよ。そんな強烈なこと、ジャイアンでも言わなそう。勝手に引き合いにだしてごめん、ジャイアン。
そうか、これだから「ふつう」って厄介なんだ。いつの間にか頭の中にしみついて、自分で自分を閉じ込めて動けないと思うようになる。
親の言った何気ないこと、変わりたくて読み漁ったビジネス書や自己啓発本の節々、呼んでもないのに勝手にずかずか視界に入ってくるネット記事、テレビの音声とか。
全部が少しずつ自分の周りに積みあがっていって、目の高さよりも高く積みあがる頃には、その内側に見えてる世界がすべてだと思うようになる。
「ふつう」は「軸」や「理想」と置き換えることが出来るのかもしれない
そういうことって多いのかもしれない。
辞めたきゃ辞めればいいし、夢も希望も、小さな目標もないならないで、そんな自分を引き受ける覚悟をして生きていけばいいのだ。
引き受けるのは嫌だ、私はそんな人間なはずがないもん!ってことなら、それはそれでいわゆる社会的な普通、というか理想?みたいなものとの差を埋める行動が必要になるだろうし。生きるってめんどくせえなあ。
そうか、私は変わりたいのだな。
インスタの広告に目をとめたこと、エッセイに投稿したいと思って、今ここまで文を書いたこと。
ああ、やっと私も自分を引き受ける覚悟を決めたのかもしれない。
ふつうは万人にそれぞれあっていい。誰かにとってのふつうが自分にとっての違和感だとしても、それは別に自分が、相手がおかしいということにはならない。
押し付けて相手を捻じ曲げようとさえしなければ、「ふつう」は「軸」「理想」と置き換えることもできるかもしれない。それは生きる原動力にもなるのかも。
私にとって普通が苦しいのは、自分の理想や軸から目を背けていたからなのかもな。
がんばれ、自分。そして日曜日は思いっきり休め、何時に起きたってあなたの自由だ。グッドラック。