「これとこれ、どっちが好き?」
小学生の頃、私はこういう質問に答えるのが苦手だった。いつもうーんと悩んだふりをして、曖昧な返事をした。なぜなら、皆と違う答えを言ってしまうのが怖かったからだ。
「変わっている」と言われるのが怖くて自分を抑えるようになった私
学校という場所で生きていくためには、「ふつう」であることが何よりも重要だった。
「ふつう」というのは、皆と同じように考えて、同じように行動すること。授業中に皆が思いつかないような突拍子もない質問をすれば、笑われる。休み時間に皆が校庭で遊んでいるのに独り教室で本を読んでいれば、からかわれる。「あの子、変わってるよね」というのは間違いなく悪口だったし、誰かにそう言われてしまった暁にはもういじめが始まっていた。
だから、私は自分の身を守るために「ふつう」であろうと努力した。皆が好きと言うものを好きになり、皆が嫌いと言うものを嫌いになるようにした。そうしているうちに、自分の意見を言うのが怖くなり、ついには自分がどう思っているのかを考えなくなっていった。
好きなことを好きと言える彼が眩しかった。私は、そうなれなかった
そんな「ふつう」の私にも、「ふつうでない」友人が一人だけいた。
彼には発達障害があり、感情が上手くコントロールできなかったり、一度集中すると周囲の状況が見えなくなってしまったりするところがあった。クラスメイトたちはそんな彼を「変わっている」と言い、近づかなかった。私はそんな彼のことがなぜか気になって、時々遊んでいた。
ある日、彼の家に遊びに行くと木琴が置いてあった。マリンバとも呼ばれるその楽器は、部屋の中央にどっしりと構えていて、カーテンから漏れる太陽の光に照らされて輝いているようにも見えた。すると、彼はおもむろにバチを持ち演奏を始めた。モーツァルトのトルコ行進曲。木製の鍵盤が繰りなす温かみのある音が部屋中に響き渡り、まるで森の中を歩いているかのような気分になった。そして、鍵盤を叩く彼の横顔は、美しかった。真剣な眼差しでありながら、口元は微笑むように緩んでいて、そこにいたのは私の知っている彼ではなかった。
演奏が終わると、私は気付いたら溢れんばかりの拍手を送っていた。彼は嬉しそうにして、木琴の音や仕組みや演奏方法など、それから1時間以上も語ってくれた。音楽に明るくない私にとっては理解が難しい内容だったが、彼の真っ直ぐな瞳に吸い込まれるように夢中になって話を聞いた。
好きなことを素直に好きと言う彼の姿は、眩しかった。でも、それは「ふつう」であることを脅かすから、私にはそれができなかった。
「ふつう」を演じて生きやすい道を選ぶより、私らしさを大切にしたい
大人からしてみると、彼のような子供こそが天才と呼ばれ、成功者になるのだろうというのは容易に想像がつく。考えてみれば、社会では「変わっている」ことが称賛されるケースも多い。例えば、「変わっている」意見は新たな着眼点と言われ、「変わっている」発想は斬新なアイデアと言われる。
「ふつう」でいることは、確かに生きていきやすい。集団の中で目立つことがないから、人間関係も上手くいきやすい。でも、この世界をより良くしているヒーローの多くは、「変わっている」人だ。大人は子供一人ひとりの「変わっている」ところをもっと積極的に発見し、褒めていかなければならないと思う。
「ふつう」を演じるために、好きなことや夢中になれることを見失ってしまうのはもったいない。そこから開く才能があるかもしれないのだから。
好きなものを好きと言い、誰がなんと言おうと好きでい続けることの大切さを、私はもっと早く知っておきたかったと思う。