私は幼い頃からずっと、母のことは"ママ"と呼んでいた。思春期では"お母さん"と呼ぶ友人達にほんの少しだけれど憧れた。
憧れたけど、変えることは無かった。
青い記憶の片隅を覗く。
当時のママは"お母さん"と呼ばれることを渋っているような。
うん、だから多分"ママ"のままなんだね、私が社会人になった今でも。
話は飛ぶ。
私はコーヒーが好き。
ママもコーヒーが好き。
2020年上半期、世界が不安な音を大きく掻き鳴らし進んでいた頃。
殆ど家にいたあの数ヶ月間、ママと私はほぼ毎日コーヒーを飲んでいた。
私が淹れることもあれば、朝早く起床するママが淹れてくれることもしばしば。
そうそう、ママに美味しいコーヒーを淹れてあげたくて、必要な器具やらそこそこ有名なお豆を集めていたりもした。実はね。
朝の瑞々しい空気がコーヒーの深い香りを優しくさせる
コーヒーの良い香りがリビングに充満して、ヨーグルトに蜜柑や桃の缶詰を入れて食べる。
パパが時々買ってきてくれる地元で有名な美味しいベーグルが主食になったり。
ママはモーニングをしながらマスクを手縫いで作ったり、雑誌を呼んだりiPhoneをいじる。内容はきっと殆どインスタグラム。
私は勉強をしたり本を読んだり、同じくiPhoneをいじって。
朝の瑞々しい空気がコーヒーの深い香りを優しくさせる。太陽が少しだけ出しゃばるから室内が眩しくみえる。
家族であり弟であるチワワの風太が気持ちよさそうにソファで眠り、ママが1年程前に手懐けた野良猫のまめちゃんが、庭で寝転がるのが見える。
外への恐怖と同じくらい、家族と過ごせる事の幸せも感じていた
あれっ、本当に今、世界中でウイルスが大流行してるの?
そんな事を口にしたら、無知で呑気で空気の読めない発言するなと、世間から袋叩きにされてしまいそうだ。
けれどそんな風に感じてしまうほどに、穏やかで優しくて、生涯あと何度こんな日常を、ママと暮らせるんだろうなんて思った。
外への恐怖と猜疑心が降り積もってゆくのと同じように、家族と過ごせる事の幸せを噛み締める嬉しさも、確かに私は感じていたのだ。
就職して実家を出てから半年以上は経つけれど、ママは久しぶりに会えればごはんを作ってくれて、一緒にカフェに行ったり、朝はコーヒーを淹れてくれる。
自分で言うのもなんですが、娘と過ごせる時間をママなりに大切に思ってくれてるんだろうと。
こう文章にするとどこか気恥ずかしい。
ママと一緒にコーヒーを飲んでいた日々は宝物
ママと毎日のようにコーヒーを飲んでいたあの日々はある意味宝物なんだ、
きらきら輝いて温かくて、涙がでそうになる。
きっと将来、あんなに一緒にコーヒー飲んでたくさんの時間を過ごせる日常は、無いんじゃないのかと。
今だって、私は私なりに、ママはママなりに、毎日色んな事を両手から零れ落ちそうな程、抱えて考えて消化してるんだろう。
習慣化したコーヒーのマグカップを片手に、朝の光を愛しく感じながら。
それだけで生きてることがたのしく感じてしまうほどに。
目には見えない手を取り合って、足並み揃えて、時々離れたりまた近づいて。
踏みしめるように歩く時もあれば楽しくて飛び跳ねるように走る時もある。
総じてこの世界は、なんて美しくて楽しいのか。
ママ、産んでくれてありがとね。
軽く聞こえるかもしれないけどそんなことないからね。
次会えたらどんなコーヒーを一緒に飲もうかなぁ。