ある晴れた夏の日の平日の午前、25歳を迎えたばかりの私は、とある山の麓にある鳥居の前に立っていた。

馬鹿な話だと思うだろうが、私はこの人気の無い山の登山ルートなど知る由もないのにも関わらず、入山しようとしていた。

厭世的になっていて、半ば諦めると同時に、自暴自棄だった

この頃のわたしは、厭世的になっていた。
自分の中の糸がぷつりと切れて、己と社会に対して絶望していた。人間界では、「社会不適合者」というレッテルを貼られていても、山に行けば、無条件に生態系の一部であることを感じられると思った。

また、遭難しようが死んでしまおうが、私がいなくても明日も世界は回るのであるといった具合に、半ば諦めると同時に、自暴自棄になっていた。

数日前の雨で、土がぬかるんでいたので、足元に気を取られながら歩くと、徐々に神経が研ぎ澄まされていくのを感じた。この石は崩れやすそうだとか、あの地点は滑りやすいから気をつけよう、蛇がいるかもしれないから藪の側を歩くときは注意だ、といったように。自暴自棄になっていようが、人生を諦めかけていようが、幸い、動物に備わっている野性の勘が、危険を予測・察知し、「怪我をしないように」と働いてくれていた。

こうしてしばらく、人間というより、一匹の動物として山を彷徨っていた。
カマキリ、アメンボ、キノコなど様々な動植物を目にしたが、自分も含めてそこにいた全ての生き物が、対等な関係であるように思えた。

全神経を稼働させながら、野性丸出しのメスのホモサピエンスとして山に存在していた最中、「お〜い」と、背後からか声がした。

「ねえちゃん、こんなところでなんばしとっとー」とこっちの事情もお構いなしに尋ねてきたものだから、きまりが悪くなり、ホモサピエンスを中止してさっさと下山した。

自分自身の中にある防衛本能と、ひたすら闘い続けること

わたしたち人間は、進化の過程で、「怪我をしないように」、「失敗しないように」と刻まれてきた。ある時代には、木の実を取ろうとして落下し、傷口が炎症を起こして死に至らないように、また、ある時代には、傍若無人な大名に首を跳ねられぬよう、できるだけ目立たぬよう立ち振る舞う必要があったかもしれない。本来備わっている危機管理能力は当時有効に働いていたかもしれないが、高度に文明が発達した現代社会にそもそも、そんなリスクは存在しない。

結局のところ、「ふつう」を超えるとは、いつだって自分自身の中にある「安定」や「安全・安心」を欲する防衛本能と、ひたすら闘い続けることではないかと私は思う。だから、他人と比較するなんてナンセンスだし、ましてや、他人がどう思うかなんて関係ない。

誰かが敷いたレールから脱線した私は、それと引き換えに、多くの人が重要だと位置付ける「ふつう」のキャリアを手放した。

現代人の多くが考える「ふつう」は、本当に「人間らしい生き方」なのか

でも、聞いてほしい。

だからこそ、自分の中に残ってるものだけで勝負するしかないというメラメラと燃え上がるような、生きる情熱が湧いてきた。これをやったらダメかもしれないなんて、やってみなきゃ分からないという気になって、結果、ほとんどのことに挑戦ができる。勿論、散々な結果に終わったものもあるけれど。

わたしは、都内の大学を卒業後、一般企業に就職するわけでもなく、公務員になるわけでもなく、しばらく浮遊して、ひょんなことから、長崎県長与町にある小さなオリーブ園の販売の手伝いをはじめることになった。長与町では、湾岸沿いに面した斜面に、数千本のオリーブの木が栽培されている。

今年2020年は、台風や豪雨の影響のため不作の年だったようで、収穫量は例年のたった10分の1。そんな逆境の最中にいても、目の前の若者に「長与のオリーブを広めていきたい」とキラキラした目で夢を語ってくれた40代の農家さんから学ぶことは、あまりにも沢山ある。間近でそんな彼を見ていて、現代人の多くが考える「ふつう」とは、果たして本当に「人間らしい生き方」であるのかと疑問に思うのだ。夜明け前の畑で海を眺めながら、オリーブの静かな呼吸を聴く。朝日に照らされると共に、オリーブの葉たちが目を覚ます瞬間、いのちが燃える音がした。