ツヤツヤで真っ黒で、なだらかなカーブを描くフォルムが好き。
正面に立って蓋を開けて、真紅のフェルトを取る瞬間が大好き。
白黒の88鍵をみつめて、両手を持ち上げて、さぁ弾くぞって大きく息を吸うとき、いつだってあなたに恋をしている。

ピアノを弾き始めたのは、多分5歳のとき。
母がピアノをやっていて、いろんな曲を弾いてくれた。目の前の私よりもピアノを見ているのが気に入らなくて、しょっちゅう演奏の邪魔をしたっけ。
でもいつのまにか、私も弾くって言い出して、毎週レッスンを受けるようになった。
どうやら「さいのう」ってやつが多少あったみたいで、気がついたら近所で評判のピアノの上手い子になっていた。…まぁ、人の家に遊びに行く度に、ねえねえ聴いてよってライブを始めるせいなんだけど。

だから、当たり前のようにピアニストになるんだって思っていた。

全てを犠牲にしてもいいの?という問いに何も言えなかったけれど

15歳になって音大の先生のところに行った時のこと。先生の前でピアノを弾いて、少しお話して、それで、「この厳しい業界で生きていくためには、全てを犠牲にしてピアノだけを頑張らなくちゃいけないよ。それでもやるの?」って訊かれた。「はい」って言えばいいだけだったのに、何も言えなくて、口からやっと出たのは「わからない」だった。

わからないなら、もっと確実な道に進んだ方がいいんじゃないかな、でも、ピアノは続けてください。その場はそれでお開きになった。普通科の高校を卒業して、割と名の通った大学に進学した。たくさんの友達ができて、授業もとっても面白かった。でも、ピアノはずっと弾き続けていた。もっと上手になりたくて、もっと誰かに聴いて欲しくて、そして、あの日の私にごめんねって気持ちもあって、やめたらしんじゃうんじゃないかって思っていた。

そのうちに、別の方向から音楽に関われればいいんじゃないかって、音楽の研究をすることにした。そうやっているうちに、あの音大の先生とどんどん仲良くなったり、本当にピアニストになろうとしている友達ができたりして、ピアニストになるってどういうことなのかがわかってきた。

25歳の私は、やっぱり弾かなきゃダメだともう知っている

ねぇ、あの日の私、プロの音楽家になるって、本当に大変なことなんだよ。想像もできないような努力をしても、思い通りに弾けなくてくやしくて泣いたり、自分より上手い人に嫉妬したりなんて、ごく普通で当たり前のこと。外から見ると華やかな世界だもの、15歳じゃあまだわからないよね。

でも、25歳の私はもう知っている。やっぱり弾かなきゃダメってことを。ピアノなんか弾いて遊んでいちゃダメかもとか、実はピアノが好きじゃないから、あのとき「はい」って言えなかったのかもとか、ピアノが弾けることが一番の自慢のくせに、「私より上手い人なんていくらでもいる」って一番のコンプレックスに思ったりとか。いろんなことを考えながら、それでも今日まで弾いてきて、これからもずーっと、おばあちゃんになってもしんじゃっても弾くの。こんなの無茶苦茶大好きじゃん。

そんなこんなで、ピアノは何があっても絶対弾き続ける、でも、生きていかなきゃいけないから就職するっていう、あたり前の選択ができたのがつい最近のこと。
本当にあたり前の、そうあるべき選択。でも、叶わなかった夢にしがみついて、ここにいたいと泣き喚く、存在を認めたくないような弱くて小さな「私」と向き合わなくちゃ、先に進むなんてできなかった。今も、私の中にはこの「一番弱い私」がいる。私がピアノを好きな限り、この子はずっとここにいる。だから、抱きしめてあげることにした。だって、この弱さは確かに、私の「好き」の一部だから。

そうやってちょっぴり強くなって、今日も私はピアノを弾く。
明日は残業で多分弾けない。明後日はちょっとだけなら触れるかな? そして週末には、思いっきりあなたとのデートを楽しもう。
いろんなことがあったけど、今日もあなたが大好きです。