進研ゼミをやっていると毎月「赤ペン先生」なる人に、テストを送ることができる。その添削に貼り付けられてやってくるのが、金色に輝く「がんばりシール」だ。

もう、なにとも交換できない私の「がんばり」がぴかぴかと光っていた

そのシールは、ペンや貯金箱、極小さいビーズクッション、簡素な漫画家キット、簡素なオーディオ機器、などと交換することができる。私も色々と交換したはずなのだが、家のどこにも見当たらない。いつか捨てたのだと思う。あの頃の私は「捨てた記憶もないのに無くなっているようなものがびっしり並んだカタログ」に目を輝かせ、勉強に励んでいた。最高だった。

先日、24歳の私は、机の中からがんばりシールの束を見つけた。プレゼントへの交換期限は10年ちょっと、過ぎていた。もう、なにとも交換できない私の「がんばり」がぴかぴかと光っていた。10年経っても、光り続けるものなんだなと思った。

必死に集めたがんばりシールを交換しないままムダにした私は今、フリーターとして生活をしている。「なんでフリーターなんだろう」という他人の訝しさを払拭するために「脚本家になりたくて」と言ったり、日によっては本当に心のそこから「脚本家になりたくて」と言ったりしている。

「がんばり」を自分くらい認めて、讃えて、労ってあげればいいのに

私にとって、欠勤せずにアルバイトに行くということはとても難しいことだ。ある日バイト先で、肩で息をしながら涙を流す事件を起こしてからというもの、薬を飲みつつ、頓服薬をポケットに入れて、それでもシフトに穴を開けたりして、結局はアルバイトをやめて実家に帰った。それが、今ではちゃんと毎日バイトに行っている。「明日こそバイトに行けないかもしれない」とめそめそしながらも休まず行っている。最近は、調子を崩す前と同じくらいのシフトが入っている。がんばっている、と思う。

その「がんばり」を私は「どうせ、周りの人が認めてくれない」という理由で無下にしている。「どうせ正社員の給料には到底及ばない」「フリーターのくせにろくに執筆もしていない」「大学時代の友人はテレビに出ているのに、私はこんな状態である」なんて考えて、自分を痛めつけている。小学生の私も、大人になった私も、「がんばり」をムダにしてしまうタイプのようだ。せっかくがんばったんだから、自分くらい認めて、讃えて、労ってあげればいいのに。

今日もシールをぺたぺた。今の私の「がんばり」を讃えてくれるみたい

私は画用紙を引っ張り出してきた。

それなりの大きさに切って、黒いペンでマス目を書いた。
アルバイトに行ったら1枚、脚本を書いたら1枚、がんばりシールを貼ることにした。「嫌なことがあったボーナス」や「生理前・中ボーナス」も認めることになっている。おかげさまで、シールはよく貯まる。10年前、何とも交換されなかった私の「がんばり」が、今の私の「がんばり」を讃えてくれるみたいだった。8枚貯まったら、1000円を握りしめて近所のスーパーで豪遊する。いつもはちょっと高くて買えないお菓子とか、ジュースとか、クラフトビールとか、ビーフジャーキーとかを買う。このシステムの何がいいって、「がんばり」が目に見える形で積み重なって行くところだ。私は「がんばり」に終わりがないことを恐れている。今日1日を頑張ったところで、明日もシフトは入っているし、生きて行くためには来月も来年も10年後も頑張らなくてはいけない。あまり前ばかり見ると辛くなる。だから毎日の頑張りをシールにして噛みしめる。昨日も一昨日も積み重ねることができた自分は、今日も明日も頑張れる。そう思える、ような気がする。

赤ペン先生はテストの点数が何点だろうと、がんばりシールをくれた。「成果」と「がんばり」は別のものだ。「がんばり」くらい自分の甘々なものさしで測って良いと思いたくて、私は今日もシールをぺたぺた貼っている。