「よくそんな小さなこと覚えていたね」
出来事の一瞬一瞬は無意識のうちに、切り抜きのように人の脳みそへと保管されていく。それをふわっと呼び起こす作業が、私はどうやら得意らしい。
例えばそれは親しい誰かとの会話、その日の最高気温、お店で掛かっていた流行りの曲、選んだランチプレート、夕方乗った電車の様子。どれもこれも特筆して印象深いわけでもない、取り留めのない日常のこと。知らぬ間に頭の抽斗に仕舞われたそんな諸々が、ふとしたときにさらっと手元で再生される。
きっと多少の脚色は添えられているが、それでもその時の空気をまるごと再体験するかのように、私の記憶は自然に取り出されていく。
不思議にも、意識して覚えるということはとても苦手。数秒前に計算した電卓の数字、明日にでも切れそうなお醤油、会議中に聞いた得意先の名前。脳みそからすぐに吹き飛んでしまったものがたくさんある。
残しておこうと思うほど曖昧になるものと、不意に鮮明に浮かぶなんでもない日常。
一体何が違うんだろう?
静かに私の琴線を揺らすもの。残しておきたいものとして心に滲むもの
答えはなんとなくわかっている。
「心に滲んだ」かどうか、だ。
日々出会う様々な出来事には、喜怒哀楽では測れない精細な要素が含まれている。私の中に息づく過去の実体験や価値観や想いが、「見えない何か」に反応し、静かに私の琴線を揺らす。あまりにも微かに触れられると、私はすぐには気がつかない。
けれど、たっぷりと湿った筆先から絵の具がぽたっと画用紙へ落ちるように、震えた琴線の上を伝って私の感性に「何か」が確かに滲む。覚えておかなくてはいけないもの、ではなく、『残しておきたいもの』として。
最初から脳へ蓄えようとすれば流れ去ってしまうけれど、心を経由すると滲んで留まることがある。選り分けるのは私の感性、そこに意識は関与しないので滲む理由はわからない。
けれどそれが不意に蘇った時、小さいながらも何かが胸の内でさざめく。暖かく、冷たく、ちくっと、きらきらと、不穏に、ほんのりときめく何かがあることに気がつく。
そして私は納得する、「些末に見えたこの記憶に、こんなものが隠れていたのか」と。
めぐり合った瞬間の中に、拾うべき気づきがある
「よくそんなこと覚えてたね」という言葉には、大抵「記憶力いいよね」が続く。これまで何度も貰った言葉だけれど、もしかしたら「記憶力」とは絶妙に異なるものなのかもしれない。
いうなれば、『ぽたぽたじんわり広がる色を丁寧にリフレインする力』。
頭が覚えようとするより先に、私の心が感じ取っている。そして浮かびあがらせることで教えてくれているのだ。めぐりあった瞬間の中に、拾うべき気づきがあることを。
心に滲んだ小さな染みは、明日の私をほんの少し豊かにしてくれている。