裕が姪への誕生日プレゼントを買わないといけないと言った。毎年あげてるの?と聞いたらそうだと答えた。私の誕生日には何もくれなかったのに。誕生日には、チューリップの花束を前々からねだっていたのだ。付き合って初めての誕生日くらい、何かあっても良かったんじゃないの?と思う。一ヶ月を過ぎるまでは、用意の最中なのではと期待していた。だけど何もないまま気がつけば6月。仲の良い友達の一人は、プラチナの婚約指輪を結婚相手から貰い、籍まで入れてしまったというのに。

裕の家から見える蔓を目で追っていくと、白い紫陽花が見えた

いつもの日曜日と変わらず私は裕のベッドで目覚めた。彼は先に起きてソファでゲームをしていた。目覚めた私に気づくと、ゲームを中断して枕元へ体を寄せてキスしてくれた。裕の家は海のそばの高台に建つ一軒家で、天気の良い日は部屋から知多半島まで見えた。青の遮光カーテンを開けたが、今日は曇り。遠くが見えなくてつまらないので、視線を下に落とすと電線に絡まる蔓がある。隣の家から生えているようで、以前裕の母が大家に蔓の根元を切り落とすよう依頼したと言っていた。
「ねえこの蔓、まだあるの」
「蔓?ああ、電線に絡まってるやつ?下の方の茎はもう切ってもらっちゃったかなあ。そのうち枯れてくと思うけど」
蔓を目で追っていくと、下の方に白いものがあった。白い花。紫陽花だった。
「あ、紫陽花だ、裕、見て、紫陽花が咲いてるよ」
どれどれとまたゲームを中断して見にきてくれる裕。

見にいく?と彼が言ってくれたので、二人で下に降りた。紫陽花の生えている場所へは、玄関を出て、家庭菜園を横切り家の裏へ回る。近くで見てみると、とても立派な紫陽花だと分かる。茎が太く、一枚の花びらも枯れていない。花屋にもこんな良い紫陽花はないほど。隣の家の紫陽花だが、敷地の境界にあるワイヤー状の鉄柵の隙間を通り抜けてこちらの家の敷地で花を咲かせていた。柵の隙間は目の前に咲いているの紫陽花の花よりも狭い。きっと花が小さいうちに隙間を抜けてこちら側で花を大きくしていったんだろう。
「すごい、綺麗だね。大きいお花だね。花屋に行きたくなった。今の時期なら色んな色の紫陽花があるだろうな。こんな白の紫陽花と、紫がいいかな。買ってきて、家の花瓶に飾ることにする」
「ほんとやな。大きいな」

欲しい紫陽花を指定させる裕。考える隙もなく指定する私。そういえば

「この花、いる?」
裕が私に尋ねた。唐突な質問で意味が理解できずに黙っていると
「切ったるわ。ちょっと待っとり」
と言って家の中へ戻っていってしまった。外壁の角に消える彼の背中を呆然と見送った後でやっと言葉の意味に気づいた。裕は、隣の家の紫陽花の花を切ってくれようとしているのだ。そして恐らく、園芸鋏を探しに行ったのだ。しかし、隣の家の紫陽花の花を鋏で切り落としたりしたらいけないのではないだろうか。私にはやってはいけない事としか思えなかった。
あったー!と言いながら笑顔で戻ってくる裕。
「ねえ、いいよ、お花屋さんで買うよ、だってこれ隣の家の紫陽花でしょ」
「え、いらん?」
「欲しいけど、いいよ」
「ええんやって。花はうちにあんで、うちの花や」
と言ってあっと言う間にジョキンと一本切り離してしまった。白い花を私に渡す。重くてやはり立派な紫陽花である。
「どれがいい?」
「じゃあ…これ」

モラルについて考える隙も与えず、欲しい紫陽花を指定させる裕。

そしてしっかり指定してしまう私。ああ…流されている。

そういえば、付き合い出したきっかけもこんな感じだった。遊びや食事によく誘ってくれるので、好いてくれている事は少しずつ分かっていた。一つ一つの誘いに応じているうちに、友達の場合はどこまでの誘いに応じていいと思っていたのか、自分で自分のルールが分からなくなっていた。

初めて家に泊まりに行った時はまだ付き合っていなくて、好きだとも明言されていなかった。就寝前のベッドで突然抱きしめてくれた裕の気持ちと同じように、本心では私も彼と寝たかったけど、仕事も趣味も忙しくなってきた時期にこのまま関係を持ってこの先長く続けていけるのか、考えたかった。

考えた上で、続けていけると思えてから、付き合う事にしたかった。一応の計画を自分の中で決定しないまま、恋人関係になれる例を作りたくなかったのかもしれない。

結局その日も、次の日も私の意志は熱い体温と芳香に負けた。もしも裕が奥手で、気が弱く、遠慮がちな男性だったら、今こうして紫陽花を二人で囲んでいることは無かったと思う。

私は歩み寄り、お礼にキスをした。裕はTVから視線を外して応じた

「こっちの緑の紫陽花はどうする?欲しい?」
「うん欲しい。切って」
綺麗な紫陽花を二本三本と手に束ねさせて貰って理性を失った私はお願いする。その時、紫陽花の家の方から声が聞こえた。住人が庭に出てきたようだった。私たちは黙り、裕は鋏を開いたまま息を潜めて私の方を見る。私も黙って裕を見る。しばらくすると戸の閉まる音がして、住人の声が遠のいた。そしてまた何も聞こえなくなった。二人でセーフと笑いあい、緑の紫陽花を一本だけ切ってもらって早々に家の中へ戻った。
長細いコップを花瓶代わりに借りて長さを調整して挿す。やっぱりとっても綺麗で、ありがとうとお礼を言うと裕は、いいえー、まあ、俺のじゃないけどなと笑った。私は誕生日プレゼントを貰えてなかったことを思い出し、そして、この紫陽花が代わりだと思った。普通にチューリップを買ってきてもらうより、または紫陽花を買ってもらうよりずっと印象深くて楽しいプレゼントだった。隣の家で根を張っている紫陽花の花をこちらの家の敷地内だからって切ってしまうなんて。今となっては、裕のお部屋の中で、美しい切り花となっている。隣人には悪いがおかしくって笑ってしまう。多分、ずっと。もしいつか別れてしまっても、今日の出来事を振り返れば、笑ってしまうだろう。

裕は紫陽花が綺麗だと喜ぶ私を見て良かったねと言ってTVをつけソファに座る。まだ見ていない録画のお笑い番組を選んで再生を始めた。三秒も経たないうちにわははと笑い始める。私は裕の側に歩み寄りお礼にキスをした。彼はTVから視線を外して接吻に応じる。付き合って初めての誕生日にプレゼントが無かったことなんてどうでもいいと思った。