『感性』というと、頭に浮かぶのは木漏れ日の中でそよぐ風だったり、朝にトースターで焼いたパンと挽きたてのコーヒの薫りを嗅いだ時だったりする。
『感性』に紐づけられるのは、いつだって美しくて、澄み切っていて、邪念のない心だ。それはしかし、日々を目まぐるしく生きる中で、どうしても置いてきぼりになりがちで忘れがちな心の一面でもある。

それを取り戻すために、私たちは温泉地に行ったり、自然やアートに触れたりすることで、鈍った感性を必死に研ぎ澄まそうとする。かつての、子供の頃のような純粋さを取り返そうとして。

感性って案外お手軽 「誰から見ても尊い存在」じゃなくていい!

だが、人生をそれなりに生きてくると、『感性』は何も元から美しい、誰が見ても尊い存在の中に見出さなくても良いのだと気づき始めた。むしろ自己の心の持ち方次第でどうとでもなる、案外気づけばそばにある、お手軽な能力なのだ。これは、今回のコロナ禍によって、今更ながら私がたどり着いた真理だった。

それはスーツを買うにしても、である。

私の職場は仕事着は自由ではあるが、なんとなくスーツを着続けている。新卒の際に購入していた黒の定番色のものは流石にもう捨ててしまったが、それでもいまいち冴えない、でも少しばかりお洒落に見えるラインやカットのものを着ている日々だった。

スーツと言えど上下揃えると馬鹿にならない金額なので、購入当初は袖を通すたびに背筋が伸びる感覚を味わっていた。だが、数年も同じものを着用していると、その気持ちはどこへやら。毎朝スーツを着る行為もルーティンへと化してしまっていた。

それでもスーツにこだわる理由は2つ。1つ目は、朝にその日の服を選ぶ作業が億劫だから。2つ目は、父親の言葉にあった。

ビシッとスーツを着こなす父親に言われた「制服が戦闘服だ」

父親は、自身の仕事に非常に誇りを持っている人で、幼い頃から私も将来は斯くありたいと尊敬してきた人物だ。当時、まだ学生で制服を義務のように着ていた私に対して、父親は言った。

「勉強が本分の君には、その制服が戦闘服だ。仕事をする僕にとっては、スーツが戦闘服。だから、一番いい、自分に自信を持てる戦闘服で仕事に行くんだよ」と。

その言葉通り、父親のスーツはしっかりと仕立て上げられた一級品で、幼心ながら「かっこいい!!!」と思ったことを覚えている。

それから数年が経ち、会社員になった。仕事でスーツを着るようになり、父親の言葉が何度も脳裏をよぎったが、生憎社会人数年目の私に、父親のような『戦闘服』を買うことが出来るほどの経済力もなかった。率直に言うと、私は自分自身に自信がなかったのである。

あれ、私かっこいいじゃん そう思ったら私の戦闘服と出合えた

コロナ禍で、自由な時間が随分と増えたことで、数年振りにゆっくり自分を振り返る時間が出来た。
振り返ってみると、案外悪くない自分がそこにいた。余裕がない時には、出来ていない欠けている自分ばかりが目についたが、目標に向かってガムシャラに努力してきた自分はかっこいいなと思える。不思議な体験だった。

緊急事態宣言が明けたある日、ウィンドーショッピングをしている際に、あるブランドのスーツが目に止まった。これまで購入したことのない、淡い色のスタイリッシュなデザインが印象的で、私は吸い寄せられるように店に入った。
試着してみると、まるで私を待っていたかのようにぴったりで、思わず笑ってしまった。なんだ、こんなに簡単だったんだ、と。
一生懸命背負い込んだ荷物を下ろしてひと休憩した私は、消極的で後ろ向きな気持ちも一緒に下ろしてしまったらしい。これまで、まだ早い、こんな色が私に着れるものか、私には暗い色が似合うのだという心の強張りが溶け、自分を良いと認めることができる強さの先にあったのが、淡い色のスーツだった。

私の『感性』。それは、自分のあるがままの心を受け取ろうとし、またそれができる能力のことではないだろうか?

まだまだ人生は長く、私の感性は発展途上だ。
次なる『淡い色のスーツ』に出会えるよう、早起きしてトースターでパンを焼くことから始めようか。想像だけでなく、実際動いてみることで生まれる心の動きがあることを学んだので。