-「結婚なんてなければいいのに。」
これが私の口をついて出る最初の答えだ。

私が今付き合っている人は、結婚している。
20年余り生きてきて、こんなにも愛した人は他にいない。

今までだって、実ったものも破れたものも含めて、恋をしてきた。私が好きになっても、そっぽを向き続けられた挙句結局見向きされなかったこともある。大好きになった相手が、たまたまじっと私のことだけを見つめてくれていたこともある。
そんな恋の只中で無邪気に楽しんでいた私に、どうしてこの気持ちが想像できただろうか。

彼と私は、互いに縁もゆかりもない土地に生まれ、異なる世代を生き、巡り合いの中で出会って、恋をした。なんの変哲もない、恋をした。
その過程の中で、素晴らしいパートナーに出会って結ばれるというステップを踏んでいたか否か、言ってみれば既婚未婚の差はそれだけに過ぎない。

その差に、私は目下大胆に翻弄されている。

正論がこんなにも難しいということをわかってくれるだろうか

これからも彼の側にいたい。愛されたい。いとおしいと思うこの気持ちを、その対象であるただ一人に注ぎ尽くしてしまいたい。この気持ちを実直に相手に伝えて、なんとかかんとか唯一のパートナーとして隣にいられないものかと何度も願ってきた。

あるいは、こうも思う。そんな行動は正義ではない。相手のことを真に思い遣るのであれば、すでに結ばれているパートナーとの温かい関係やご家族との幸せを願って一人静かに立ち去るがいい。ど正論である。なんの異論もない。
ただ、それがこんなにも難しいということを、あなたはわかってくれるだろうか。

なにせ愛している。心底、疑いようもなく、愛している。それなのに、気持ちを表現することは許されない。だから思うのだ。「結婚なんて、なければいいのに。」
そこで、問うてみる。「結婚なんて、なければいいと思う?」

私がしていることは法で裁くことが出来る不貞行為

結婚ってなんだろう。今の日本では、結婚することで法律の枠組みの中で家族になれる。家族をつくるための手段が結婚ということになっている。それを定めている民法ではこんな条文が定められている。
「配偶者のある者は、重ねて婚姻をすることができない。」
「夫婦は同居し、互いに協力し扶助しなければならない。」
私がしていることは、こういった条文の解釈上不貞行為となり、直接の関係者が訴えさえすれば正当に慰謝料を請求することができる不法な行為だ。

なぜ、愛している人を、思うままに愛してはならないのか。悲しむ人がいることも知っている。彼が愛したその人を悲しませたくない気持ちも持ち合わせている。それでも止むことのない私のこの愛情はいったいどこへ向ければいいのだろうか。

田舎で仲睦まじく暮らす両親。彼らは愛の連鎖を生み出している

話は変わって、私には、このご時世東京からなかなか帰省しない娘を田舎で待っている両親がいる。彼らは結婚し、一人の娘をこの世に生み落とし、社会人として巣立ったその子を遠く見守りながら、今も仲睦まじく暮らしている。そんな二人のことを、私は心から愛している。

家族が生む愛情は大きな愛の連鎖を生む。二人の愛が子を生み、子は新たな恋と、愛を見出す。結婚は、愛を見つけた二人が家族となるための手段であり、家族は、連鎖する愛を生み育む、小さくて温かな場所なのだ。

彼とそのパートナーは家族であり、これから新たな愛を生みだすかもしれない。一方、彼と私との間にあるのは、恋であり、それは私たちが直面している大きな苦悩でもある。そしてここに生まれる愛は、決して連鎖することがない。

見つめるべきは恋であり、結婚は憎むべき相手ではない

「結婚制度なんてなければいいのに。」
私の放ってしまったこの言葉は、矛先を誤った単なる嘆き。見つめるべきは恋であり、結婚は憎むべき相手ではない。

私が愛した人は、結婚している。

そして彼は、きっと新しい愛の循環に日々向き合うことになるのだろう。
私は立ち止まり、それから、なんの変哲もない恋をはじめる。

母は言う。
「孫の顔が見たいわ。」下がりきった目尻。ばば愛の先食いである。