「わたしなんかブスだから」「わたしなんかデブだから」って、何度自分に言ったか分からない。
 幸い、「かわいい、きれいだ」と言ってくれる恋人も、「そんなことないよ」って言ってくれる友達もいるし、鏡の前の自分に「かわいい」と言ってあげられることだって、ごくごくたまにある(メイクがうまくいった日に限る)。

「わたしはブス、デブ」呪いの言葉はルッキズムの悪魔を居座らせる

 それでも、自分はブスでデブだと思う日の方が圧倒的に多い。そして、彼氏や友達に否定してもらうためにそんなことを言ってみせるのなんか、馬鹿馬鹿しくてもっと自分を嫌いになってしまうから、口に出すのはもう何年も前に卒業した。
そういうわけでわたしは、こっそりと、しかし明確に、自分に呪いの言葉をかけていた。「自分は美しい」と思うのがどれだけイケてるかわかっているはずなのに、ルッキズムの悪魔はわたしの中から出て行かなかった。
 ある日、恋人が婚約者になった。恋人はわたしにかわいい、美人だ、きれいだと毎日言ってくれる奇特な人だった。もちろん悪魔は心の中にどっかり腰を下ろしているから、それまで何度言われたって「はいはい」と信じなかったのだけれど。
恋人からプロポーズされた時、わたしは信じられなくて、久しぶりに口に出してしまったのだー「こんなデブでブスだけどいいの?」と。
 すると恋人はまず「それは嘘だ」と言った。嘘じゃない。本当なのだ。 二十数年間ずっとそうなのだから。

「ブスもデブも蔑称。俺はそうだと思わない」彼がくれた理屈っぽい甘い言葉

 わたしが返答に困っていると、恋人は Wikipedia「蔑称」のページをスマホで見せながら、こう言った。
 「ブスもデブも蔑称だから。蔑称って「敬意が欠如した呼び名」全般を言うんだって。俺はあなたに一生敬意を払うと約束できるから、プロポーズしたんだよ。だから俺はあなたをブスだとも、デブだとも思わない。アジア人顔の、ふくよかなかわいい美人だよ。」
これが愛の言葉でなくて、なんだろう。なんて理屈っぽくて、なんて甘い言葉。
 この時、何を言われてもあんなに平然としていた悪魔が、ビビって驚いたのが分かった。そういえば、プスもデブも蔑称だ、小学生の男子が見境もなく叫ぶ程度のレベルの。自分で自分に言いすぎて、それに世の中にもあふれすぎてすっかり忘れていたけれど。
そうだったそうだった、わたしはなんて大事なことを忘れていたのだろう。「ブスもデブも蔑称」、ブスもデブも蔑称!そして、わたしは恋人のいう通り、道ゆく人に聞いたら100 人中 100 人が「アジア人顔で、ふくよか」だと答えるくらい、平凡な顔と丸い体格だ。
 でも「かわいい美人」にもなった。今ならお世辞でもなんでもないとわかるし、平凡な顔と美しさが同居できる理屈もわかる。嬉しくて、何度も反芻していると、悪魔がスッと消えていくのを感じた。

「人として美しい」のものさしは目に見える美しさだけが基準じゃない

 そして、恋人はわたしを尊敬しているから「きれいだ」と言ってくれていたのであって、恋人はわたしに恋をしているから「きれいだ」と言っているわけではなかったということも、この時同時にわかった。
恋人はいつだってニュートラルな視点で、わたしがわたしである通りに、わたしを見てくれてい
たのだ。
 あとからゆっくり考えたけれど、わたしはずっと自分の美しさを「評価される側の女」としてのものさしでしか測ることができず、人としての美しさを測るものさしは持っていなかったがゆえに、何度「かわいい、きれい」と言われても信じることができなかったのだなあ、と思い至った。
 「人として美しい」のものさしを持っていないと、雑誌やテレビやインスタの美しい女性たちの、目に見える美しさばかりが基準になってしまうから。「自分を大切にする」ことって、つまりは「人として自分を尊重する」ことなのだなと、いつかどこかで聞いたフレーズにやっと納得することができた。そして、わたしも恋人のように、自分を、他者を愛そう、と思った。