涙とことばの間にはいつも距離がある。
感じることは一瞬なのに、頭で理解して、誰かに伝えるためのことばになるまでにはいつも途方もなく時間がかかってしまうのだ。

ずっと泣き虫なのに、泣いてしまうタイミングや原因は予想不能

わたしは自他共に認める大の泣き虫だ。
子どもの頃から泣いてばかり。そんなわたしは大人になってもやっぱり泣き虫のままだった。環境が違えば「大人のくせに泣いてるんじゃない!」と一喝されそうだが、周囲は愛を持って「感激屋さん」「感動しい」と言ってくれるからありがたい。

わたしにとって涙を流すことへの意味合いは子どもの頃から変わっていないように思う。
ずっと泣き虫なのに、泣き虫のプロなはずなのに、それでもやっぱり泣いてしまうタイミングや原因は予想不能なのだ。

お守りみたいな指輪をなくしたとき
好きな人に恋人がいるのを知ったとき
大好きな祖母とお別れをしたとき
朝いちばんに見た落ち込んでしまうようなニュースに

悲しい、苦しい、怒りたくなるような感情を持っているとき。

誕生日に友人がくれた長文の手紙
映画館で家族で横並びになって見たディズニー映画
コンサートホールの2階席で聞いたラフマニノフ
初めて読んだ夏目漱石
わたしが生まれた記念に父が買ってくれた絵
夜眠る前に聴くあの曲の詩の一節に
誰も起きていない時間帯の川辺の景色に

幸せだと感じた瞬間にもやっぱり泣いている。

子どもの頃と違うのは「感じたことを的確に伝えることばへの意識」

もちろん「今この瞬間に感動した!泣いてやるぞ!」と言って泣いているのではない。
気づいたときには鼻の奥がツンと痛くなっていて、そのあとすぐにじりじりと目の周りが熱っぽくなる。そして数える間も無く涙が流れてくるのだ。
何かを感じて涙を流すまでの時間はあっという間で、その間にことばが出てくる余地もない。

そんな泣き虫なわたしが、子どもの頃と今とで変わったことといえば、
「感じたことを他者に的確に伝えることばへの意識」だ。

昔は泣きながら「お母さんのばか!」「しあわせ~!」と、まあ端的かつ瞬発的にことばを発していたのだが、大人になるにつれなんだか、泣くという行為にもそれ相応の理由が必要な気がするようになった。それに、この感情をことばにして誰かと共有できたらいいな、とも思った。

しかし、相手に伝えるためのことばを意識するあまり、自分の感じたことに対して不安になってしまう時期があった。

自分の感じていることは多くの人にとってはどうでもいいことなんだろう。
自分の感じていることが世間とズレていたらどうしよう。
些細なことですぐ泣く自分は弱いんじゃないか。

孤独を感じるのが怖くて、つい周りの意見に同調してしまう。
すぐに泣いてしまう自分を責めてしまう。
なんだか自分に嘘をついているような毎日だった。

涙をことばにしていくまでの時間を大切にするようになった

そんな時、何気なく見ていた(何気なくといいつつ、もちろんボロボロ泣いている)、のだめカンタービレのワンシーン。千秋とのだめが一緒にベートーヴェンの楽譜を読んでいるとき、千秋は持ち得た知識の中からその曲が書かれた背景をのだめに伝えようとする。
するとのだめは「ヒントは嬉しいですけど、どう感じるかはのだめのものです」と言った。

このピュアなのだめの一言にハッとしたと同時に救われた。
そう、どう感じるかはその人のものなのである。

何かを感じているということは事実でそこに正解や不正解はない。
それに悲しくて泣いても、嬉しくて泣いても、どちらの涙も成分は変わらない。
どちらの感情もわたしにとっては必要なもので、優越なんてつけられないし、つける必要もない。嘘をつく必要も、塗り替える必要もない。
わたしが感じたことはわたしが感じたこと、そのものなのだ。

そう思えてから、涙をことばにしていくまでの時間を大切にするようになった。
それに今になって、昔感じていたことがことばになったりする。

感じたことを、まっすぐ、自分のことばで伝えていきたい。時間がかかったとしても。
ようやくわたしは、自分の感性を信じて素直にことばにしていく覚悟と、どんな感情も愛おしむ覚悟ができたのだ。