ヤンキーの多い田舎の公立中学から県内トップ高校に進んだ私は、大学・就職先ともに世間ではエリートと言われる所へ進んだ。

中学の同級生の半数は高校卒業後地元で社会人として働いており、20代前半にして既に結婚している友人も少なくない。SNSでは、彼女たちが投稿したプロポーズ直後の幸せそうな写真や純白のウェディングドレスに身を包んだ挙式での写真をいくつも見てきた。

しかし私はそれらを見ても結婚を焦りはしなかった。正確に言うならば彼女らの投稿は私に結婚を焦らせる要因とはならなかった。

私と同程度の大学、同程度の勤め先の友人の婚約。初めて焦りを感じた

だが昨年、2年目の社会人生活を迎えた頃から状況は変化し始めた。

「婚約しました」

SNSにそう投稿していたのは同じ高校の同級生で、私と同程度の大学に入り、卒業後はこれまた私と同程度の企業に勤めている友人だった。

その数ヶ月後、同じような境遇の別の同級生も婚約報告をしているのを見かけた。

大企業でバリバリ働く道を選んだにもかかわらずなぜ彼女たちは入社2年目にして結婚できたのだろう、なぜ同じ境遇でありながら私は結婚できていないのだろう、私はいつ結婚できるのだろう。今まで中学の同級生たちの投稿を見た時には決して浮かばなかった、嫉妬と羨望とが入り混じった疑問が頭を占め、「いいね」を押すことが出来なかった。

この時私は初めて、自分でも知らぬ間に自身が友人たちを自分と同じ環境に身を置いているか否かで二分していたことに気付いた。

同じステータスをベンチマークに。他は比較対象から外していたのかも

思えば友人をこうして勝手に分類するのは今に始まったことではなかったのかもしれない。

大学に入ってからは友人を大学のレベルで区分し、内定が決まってからは就職先で区分、就職してからは自分と同じ大手総合職かどうかで区分し、同じステータスの人を自己の人生のベンチマークとしそれ以外は比較対象から外していたのではないだろうか。

同じステータスの友人と自分を比較したことは過去何度もあった。大学受験期には、塾の同じクラスの人らが目指す大学と同じかそれ以上の大学に入れるよう勉強に励み、就活をしていた頃は、同じ大学の友人と同じかそれ以上の会社から内定を貰うことを目標にエントリーシートの書き方や面接の受け答えの練習をした。

いわば周りから遅れを取らぬよう、できれば周りよりも自分のほうが「良い」人生になるよう、周囲と比較し行動してきた。

これだけ見ると大変打算的な小賢しい人間である。だが、実際こうしてきたことで自分の人生には概ね満足してきたし特段何かに焦燥感を感じることも無かった。

結婚は努力や希望だけで理想の結果を得られず、正解が決まっていない

昨年から突如として実感し始めたこの焦燥感は、結婚そのものが個々人の信念や環境によって一人一人受け取り方の異なる、比較の難しいものであるがゆえと思う。

就職までは受験や試験という一律の制度のもと皆が同じスピードで人生の駒を進めてきたが結婚は違う。自己の努力や希望だけで理想通りの結果を得られる訳でもなく、何が正解と決まっている訳でもない。

今まで私が行ってきた同じステータスでの比較は、ゴールまでの期間が等しく定められ、自分の裁量が結果に直結する場合のみ有効な方法であった。

そしてそれが結婚においては適用外であることに気付かぬままこれまで同様友人と自分を比較した結果、年齢・学歴・勤務先と言ったステータスが同じで結婚できている友人がいるにも関わらず自分は出来ていない=恋愛というステータスにおいて「遅れている」と誤認し焦りを感じていた。

原因が分かった今でもこの焦燥感をそう簡単に消すことは出来ない。だからと言って恋人に結婚を迫る勇気もない私は、SNSで彼女たちをそっとミュートするのが精一杯だった。