私は、ちょっと感じすぎる人だ。

たとえば、人の言葉の裏が見えてしまう。
相手の気持ちに共感しすぎたり、五感の刺激を真に受けすぎて、疲れやすい。
たとえ空を見ていなくても、頭が先に痛み出してきて、天気が悪くなるのがわかる。

物心ついた頃から「ちょっと感じすぎる人」だった私は、自分のことが好きではなかった

物心ついた頃からそういうタイプだったから、記憶の中も、感じたことでいっぱいである。
あの子が皮肉を言う時のいじわるフェイスや、ガムみたいに吐き捨てられた先輩のキツい言葉、どんよりと体が重いときの苦しみなど、挙げ始めたらきりがない。

ところが、外面はおしゃべりで、ハツラツとした印象を与えるので、ほんとうの「感じすぎる」自分をわかってくれる人は少ないのだ。
だからか、昔から誰と過ごしていても、孤独を感じやすい。

そんな私を、好きでいてくれる彼がいる。
どちらかというと、彼は数字に強くて、理系の「人種」である。
いつも論理立てられた思考と、合理主義な性格。
私から発せられる感覚的な言葉たちを、時には数学的な難題を目にしたかのように、時には新生物でも見つけてしまったかのような反応で、不思議がる。
彼のことは大好きだけど、筋の通らない私の感覚や感情は、この人には通用しないのだろうと、勝手に思っていた。

一方の私は、ずっとずっと、自分のことが好きではなかった。
好きじゃない自分を変えようと、相当努力してきた。
変化にストレスは付き物だし、それが辛いと感じるのは、甘えだと思っていた。
まるで呼吸をするように、「頑張る」と口にしていた気がする。

ある日、何も頑張れなくなって、何も感じられなくなった。救ってくれたのは彼だった

ところが、去年のある日、ついに限界がきた。
体のどこかでプツン、と切れる音がした感覚を憶えている。

何も頑張れなくなって、何も感じられなくなった。
大好物すら食べたくなくなり、見える世界から、色がなくなっていった。
外の刺激が強すぎて、しばらく仕事も休んでしまった。

そんなどん底から救ってくれたのは、意外にも彼だった。

1日中なにもできずに終わる私を見て、彼は「今日はたくさん、休むことができたんだね」と言った。
とある朝には、「今日は風も空も気持ちがいいから、試しに歩きに行ってみたら」と言った。
自分を受け容れられず、苦しむ私を見て、「どんなあなたでも、あなただよ」と言った。

鬱々とした同居人をどうにかしようと、多少無理をしていたのかもしれない。
でも、今まで気づかなかった、彼の言葉と感覚の端にあるふんわりとした優しさが、心地よかった。
案外、同じ人種だったのか。

まっさらな水に、絵の具をといた色水が落ちて、ぽたぽたと色がついていくように、少しずつ視界に色が戻ってきた。
外に出てみたり、大好きな物から食べられるようになった。
そして、自分を変えようと頑張りすぎることは、やめた。
感じすぎちゃう自分も、もっと愛してあげようと決めた。
どんなわたしでも、わたしだよって、教えてもらったから。

そうしたら、心も体も、ちょっとまんまるくなった。

「どんなあなたでも、あなただよ」もう自分を無理やり変えようとするのは、やめよう

先日、たまたま目にしたサイトに、はっとさせられた。
そこには予めロジックが組まれており、年齢や相手と一緒に過ごす頻度・時間を選択していくと、大切な誰かと、死ぬまでに一緒に過ごせる時間の概算が分かる。

私と彼に残された時間は、あと3年を切っていた。

想像よりはるかに短くて、なにかの間違いかと思ったけど、平均余命と睡眠時間分を考慮してあると記載されており、なるほど、となる。
2年323日と、7時間しかないらしい。

まだお互いに20代だから、流石にもっと長いと思っていたが、あまりに生々しい数字に、なんだかドキドキしてしまった。
そうそう、いつかは死ぬんだよな、と自分を納得させたが、結構動揺した。

いっしょに過ごせる時間が3年を切っているならば、「まだ若い」などと、うかうかしていられない。
まだまだ2人でやりたいことが、たくさんある。
自分を嫌っている時間など、勿体無い。

だから、もう自分を無理やり変えようとするのは、やめよう。
感じすぎるわたしと彼だからこそ、味わえる世界があるはず。

もしも彼が自分を受け容れられなくなる日がきて、落ち込んでいたら、きっとわたしはあの時の彼と、おんなじことを言うと思う。

どんなあなたでも、あなたなんでしょ。