「感性」。それは、一人ひとりが身体と心で感じる、その人だけの感覚。あの時、あの瞬間、あの場所で味わった体験も、きっと「わたしの感性」だ。

憧れた絵本の中の世界。争いごとがなく、人と動物と植物が共存する

わたしは絵本が好きだ。成人式を経て5年も経つが、未だに図書館や本屋に行くと絵本のコーナーに立ち寄る。病院の待ち時間でも、子供用に置いてある絵本を手に取ったり、最近では都内に見つけた絵本の専門店にもよく足を運んでいる。

絵本は夢を見させてくれる。小学生のころから、人が傷つくことに敏感だったわたしは、いじめや自殺、殺人などのニュースを聞くと、心が苦しくてしょうがなかった。なんでこの世界は人が傷つけ合っているのだろう。どうしたらみんなが手と手を取り合って、協力し合えるのだろう。そんなことを考えていた。そして、心が苦しくなる度にただただ願っていた。「どうか、悲しいことが起きませんように。世界が平和でありますように」と。

そんな小心者のわたしにとって、絵本の中は夢見た世界そのものだった。争いごとがなく、敵・味方がない。人と動物と植物が共存していて、それらが分かり合えるやさしい世界。文字だけでなく絵で見ることで、その世界が本当にあるんだと思わせてくれた絵本は、わたしに希望を与えてくれた。ただ、憧れがある分、紙に描かれたニ次元と実体を伴う三次元は"異なる世界"であるということも実感していた。これはあくまでも夢の世界なんだと。そう思っていた中での出来事だ。

どこまでが夢で現実かなんて、書いた人にしかわからないのに

「全然車通らないね」
ザクザクと少し凍った雪を上から踏むように歩きながら、友人は言う。

わたしは友人と、とある山奥の渓谷に向かっていた。前日に目的としていた地には行くことができたため、明日向かう場所を探していた。そんな時にどうしようかとGoogle Mapで見つけた近くの渓谷。大きくごつごつした岩とその間を流れる川、色とりどりの葉に大自然を感じられるのではないかと、そんな期待を込めて決めていた。しかし、朝起きて窓を開けると、辺り一面は真っ白な雪景色。昨夜からはらはらと降っていた雪は一晩で20センチほど積もり、降る雪も少し多くなっていた。多くの人はこの雪の量を見たら、ここでやめておくだろう。それでも寒さより行ってみたい気持ちの方が大きかったわたしたちは、雪の中、渓谷まで向かうことにした。

そして10分ほど歩いた時だ。この友人が言った一言は。ポツポツと並ぶ家の前を歩いていたが、次第に家も見当たらなくなり、気づけば山道に入っていた。今まで車は一台しかすれ違っていない。片道30分の道のりは思ったより遠かった。急に風が強くなり、持っていた傘をかざす。なるほど、自然には勝てないものだなぁ、なんて思いながら歩き続けた。すると、急にピタリと風が止み、寒さも和らいだ。辺りを見ると、大きな杉の木が両サイドに何本も連なっている。木が風の凌ぎになっているんだ!杉のトンネルのようなその道は少し暖かく、気分も上がったわたしたちは車の来ない道路でステップを踏んだ。

しばらくするとトンネルをぬけるかのように、視界が開けた。右手の杉の連なりが終わり、見えた世界はモノクロの世界。雪の白さと木の影でグレーがかって見えた。きれいに並ぶ木々に雪が降り積もっている。命あるのは、わたしといっしょにいた友人だけだと思ってしまうくらい、色がなかった。

こんなにも色がない世界を私は知らない。白と黒だけのモノクロの世界は絵本の中だけだと思っていた。でも、絵本だって実際は誰かが書いたもののはず。誰かの経験やそこから得たインスピレーションが、形になったのが絵本なわけで、どこまでが夢でどこまでが現実かなんて、書いた人にしかわからない。それなのにわたしは、絵本と現実を切り分けてしまっていたようだ。このモノクロの世界を見て、そんなことを感じた。

少し空を見上げると、雪は深々と降り続けている。首を下して見えた川の水も、凍らず流れ続けていた。言葉を交わすことも、その絶対数すらもわからない。それでも「動き続ける」それらに、生命を、エネルギーを感じた。彼らも生きている。わたしたちは既に共存していたのだということを、わたしは初めて体感した。雪や風からの凌ぎの木々も、本当は守ってくれていたのかもしれない。寒さが和らいだのも、木々からのぬくもりだったのかも...。わたしが夢だと思っていた絵本の世界は、もうすでにここ(現実)にあったのだ。

"憧れ"や"好き"を追求し、その経験を重ねて「感性」は磨かれる

ここに来るまでわたしは、人や動物、植物が共存することは夢の世界だと思っていた。あったらいいな、でも実際にはないんだろうな、と。それでも雪の健気さや水の力強さ、木々の暖かさに触れた今、その世界が現実にあることを知った。

憧れを諦めるには、早すぎたんだ。ただ知らなかっただけ。経験していなかっただけだった。それと同時に、今彼らとの共存を感じられたのは、憧れを持ち続けていたからだとも思う。絵本が好きで、こうだったらいいなと消えなかった想い。それがこうして、自然との命のつながりを感じられた、わたしの「感性」の一部になっていたと思うのだ。

人は意識したもので現実が変わる、という。時に「感性」という言葉は、センスの良さやおしゃれさなんかで、あるかないかと分けられることが多いと感じる。しかし、わたしはすべての人にあるもので、向上させることができるものだと思う。「感性を磨く」という言葉もあるように、自分にあるそれを磨くことができるのだ。そして、その方法はきっと経験すること。「感性」を言葉で表現することは難しいけれど、一人ひとりの"憧れ"や"好き"へのセンサーこそ、感性そのものだろう。そして、愚直にその自分の"憧れ"を、"好き"を追求し続けること、その経験を重ねることで「感性」は磨かれる。だから、自分の希望に意識を向けて、経験に向かって足を一歩踏み出そう。

悲しい出来事にフォーカスするのはもうおしまい。わたしはわたしの世界を描く。
そう決めたとき、舞う雪が微笑んでいるように感じた。