小さい頃、夏休みは毎年北九州のおばあちゃん家で過ごした。あの頃は、夏休みいっぱい福岡にいる気がしたのに、大人になって数えるとたった一週間とちょっとの出来事に過ぎない。子どものときは、大人より二倍の時間があった。新しいものに対する感動も、発見する喜びも、最初からある程度それが何かを知っている大人とは違って、無限に存在していた。
いつもの東京で感じる世界とは違った。まるでパラレルワールドのよう
子どもの頃の記憶の中では、北九州の空気は、普段の東京の空気とは違って夏なのに少し冷たく、海の薫りが混ざった何故か物悲しい匂いがしていた。そして、おばあちゃんの生活がそこにあった。
おばあちゃん家では、お風呂は必ず夜ご飯の前、と言うルールがあった。家族の中で最年少だった私は、「最初にお風呂に入る権」を大人たちから与えられていて、いつも早めにお風呂に入るよう言われていた。
夕方4時くらいから入るお風呂は、まだ外が明るいからか湯気が日光と混ざり合って見分けがつかずしんとしている。東京の自分の家で入るお風呂よりも深く、大きなそのお風呂に吸い込まれないように、小学生の私はいつも縁につかまりながらそおっとお湯に浸かった。
そのお風呂には、少し高いところに小さな窓が付いていた。私はそこから外を眺めるのが好きだった。
小学校高学年の夏。そろそろ親から女の子なんだから、人の目に注意しなさいと言われる年頃。外から見えるからはしたないことはやめなさい、と言われるかもしれない。
でもその小さな窓から見える、知らない近所の子が父親とキャッチボールをしていたり、知らない中学校から聞こえる吹奏楽の音がうっすら夕焼けの曇り空と混ざり合っていたりする窓から見える小さな世界は、いつもの東京で感じる世界のまるでパラレルワールドのようで、なんとも覗かずにいられなかったのだ。
ふわっと飛んで別の世界に行っちゃうんじゃないか、という幻想
お風呂から見える小さな世界は、いつも異空間だ。
自分の住んでいる世界と違う世界に繋がっている。だから私は窓のあるお風呂が好き。
明るいうちに、自然光でお風呂のお湯のキラキラした水面を楽しめるような、そんなゆとりのある時間が好き。いつかその世界から私も窓の向こうの世界に行けるんじゃないか、と思わせてくれる優しい時間。私だけの秘密の時間。
そんな魅惑の時間は、本当は子どものものだけなのかもしれない。今も私はお風呂が大好きで、いつもお気に入りの本を持って湯船に浸かる幸せを噛みしめる。今でも窓の外を見たいと思う気持ちがある。
でも、子どもの頃に感じた、窓からもしかしたら飛んで、ふわっと別の世界に行っちゃうんじゃないか、と思うあの柔らかな幻想は、やっぱり時間と世界が無限にあった子どもの頃の感覚なのかもしれない。
おばあちゃん家に響く鈴虫の音色の、なんとも言えない侘しさと怖さ
音に関してもそう。涼しい夏の夜におばあちゃん家に響く鈴虫の羽の音色は、なんとも言えない侘しさと怖さと共にあった。それはきっと、友達とのお泊まり会では感じられないこと。隣で眠る自分よりも随分歳上のおばあちゃんと一緒だからこそ感じる時の無情と静けさを、子どもながらに感じていた。
今も子どもの頃のこうした断片的な記憶は残っている。でもそれを新しく実感することは、昔に比べて少なくなった。
今は亡きおばあちゃんとの記憶も、思い出の中に入ってしまった。
だけど、ふと明るい時間に、窓のついたお風呂に一人で入ると思い出す。あの頃時間がすごく長かったこと。世界が無限に広がっていたこと。それはこの世界だけじゃなくて、もう一つの世界につながっていたこと。その記憶さえ忘れなければ、きっかけさえあればまたそっちの世界に行ける。そう信じて私はこの文章を書いている。