色は言葉で言うと同じ色なのに、並べて見てみると微妙なニュアンスや色合いの違いで大きく違うことがある。どこが違うのか言い表せないけれどこの色じゃなくては!と迷いなく感じる。

「好きな色は何色?」と聞かれると迷う

 心理テストが好きで見かけるとついついやってしまうが、何度やっても毎度迷うのが「好きな色を1色選んでください」。この質問は小学生の頃もプロフィール帳でも定番だったと思うが、そのときは「淡い色なら何でも好き」と答えていた。色は全部好きで一番が選べないからだ。

 今は「奥深い色なら何でも好き」だ。昔から何色であるかより、どんな色合いであるかの方が重要なのだ。
 一つは選べないけれどたしかに色の好みは性格を表しているような感じもした。

一つを極めるとか、選ぶことをぼんやりさせながら生きていた

 小学校は6年もあるから、3年生で仲良くて4年生で離れて別の子と仲良くなって、6年生の時に別々に仲良くなった子みんなと同じクラスになることもある。そういうとき、みなさんはどうしていただろうか?

 私の場合は、頼み込んで曜日ごとに一緒に行動する相手を分けた。
 月・水・金はAちゃんたち、火・木はBちゃんたち。どちらがより好きかというより、優しくて納得してくれたBちゃんたちが1日少ない。時々文句を言われたりしたが、もめ事が起きるわけでもなくそれぞれと楽しく過ごせた。席が近いのをきっかけにAちゃんとBちゃんが意図せず仲良くなってくれたりして、相変わらず別々だったが、より過ごしやすくなった。
 はっきりしない中途半端は好まれないことも多いが、先延ばしにしていたら案外うまくいくこともあると学んだ。誰を犠牲にするでもないやり方だと思って、この曖昧さは自分の良さだと密かに思った。

 そういうこともあり、私は一つを極めるとか、選ぶことをぼんやりさせながら生きていた。こんな風に書くと広く浅く人間関係を築いていたと思われるだろうか?むしろ狭く深い人間関係を築いてきた。あれもこれもと欲張りで、染まりすぎてしまうがゆえに最後の砦として一つを選ぶことを避けているのだろうか、と思ったりもした。いろんな色が混じりすぎると濁った変な色になるからだ。

最初は分かりやすく、そして少しずつ色を見せることが大事なのだ

 いろんなことに興味を持つ割に飽き性。年を重ねるごとに、特技は?趣味は?がぼんやりしていることに引け目を感じる。一つを選ばないことを良さと思う一方で、わかりやすくはっきり好きと言える人に憧れていた。

 アルバイトや就活を通して年上の人と関わることが増えた。曖昧な言い方は「え?どっち?」と聞き返させるばかり。嘘をつかず正直な答えが、曖昧な答えなのだ、と反論したい。でも、はっきりわかりやすいように見せる部分と、控える部分を分けて話していたら、だんだん曖昧な言い方の方もゆっくり聞いてくれるようになった。曖昧さを否定されたわけではなかった。急にいろいろな色を見せてもぐちゃぐちゃになる。だから最初は分かりやすく、そして少しずつ色を見せることが大事なのだと思った。

 ある漫画の中で、グレーのヒールの色が一部剥げてしまい、画家とモデルで色を作ってなおす場面があった。ヒールと同じグレーにするには1~2色じゃなくて5色を少しづつ混ぜ合わせることで、馴染むようになった。それを読んで、色は混ぜすぎても変な色にならないという驚きと、好きな色についての不思議が少しわかったような気がした。

好きな色は?と聞かれたら、「奥深い色なら何でも好き」と答えるけれど

 「○色」と言っても実は何色も混じっていて、奥深い色というのはきっといろんな色によって「○色」を引き立てているのだろう。人の性格も同じように、矛盾しているようなところや、いろんな面が混じっていると思う。好きな色1色選ぶのは、欲張りなところといろんな面を無視しそうだというのが合わさって選べなかったのかもしれない。

 奥深い色は、いろんな色を内包したうえで1つの色を失っていない、というところに惹かれる部分がある。いろんな色を持ちながら、より引き立つ色を探したい。いつかこの色が好きとはっきり言えるように。