最寄り駅の線路の下を横切るようにある、地下通路が好きだ。
線路の近くに洞窟への入り口みたいな階段が設置されていて、降りると想像するよりも少しだけ広い通路にでる。壁にはモザイク画の魚の絵とか、近隣の小学校の子どもが描いたであろうイラストが飾られている。頭の上に電車の気配を感じながら、通路を歩いた先で階段を上り、再び普通の道に出る。急な階段でほんの少しだけ息があがりながら、何もなかったかのような顔でまた歩き出す。

週に何度かは駅を西口に出る。もちろん地下通路を通るためだ

私の家は最寄り駅の東口方向にあるのだが、週に何度かは駅を西口に出る。
話の流れでわかるかもしれないが、もちろん地下通路を通るためだ。
一度西口に出て、わざわざ地下通路を通って本命の東口に出る。正直ちょっとだけ疲れる。別に、地下通路に「高校生の時ここで告白された!」なんてキラキラした思い出があるわけでも、ここでしか見られない特別な何かがあるわけでもない。

ただ、私そこで少しだけ物思いにふける。わざと普段より1.5倍くらい遅く歩きながら、その日にあったことや、漠然と抱えている思いについて振り返る。
そんなに楽しい気持ちにはならない。むしろ小さな反省を繰り返すような時間であり、素直に少しだけ気が沈んだりする。

例えば「あの時友達につまんないこと言わない方がよかったかな、白けたよな」とか、「あの時大声で笑いすぎて引かれたかな」とか。
よくあるのはこんなところだが、その日にあった小さな反省を思い返す。

何気ない日常の中にあることでも、感情が動いたことは記憶に残る

もしかしたら、多くの人は、何も考えず普通の道と同じように地下通路を通るのかもしれない。実際、サークルの友達に「地下通路を通るためにわざわざ西口に出ることがある」と話たら、批判されるわけでも肯定されるわけでもなく、ちょっと不思議そうな顔をされた。共感されるようなことではなかったのか、と私はもやもやマークを頭に浮かべながらも、批判せず聞いてくれる友達のありがたさが身に染みた。

感情が大きく動いた出来事は、何度も思い出したり、人に話したり、SNSに投稿したりする。好きな人と食べた美味しい料理とか、誕生日にサプライズで連れて行ってもらった温泉旅行とか。
反対に、バイトで理不尽な最低客に当たったとか、レポートがギリギリ期限に間に合わなくて単位を落としたとか。何気ない日常の中にあることだとしても、感情が動いたことは、記憶に残る。

確かに自分が感じたものとして、地下通路に閉じ込めておける

ただ、そこから零れ落ちる、その日でないと思い出せない本当に些細な反省事を、私は地下通路で思い返す。次の日には反省したことすらも忘れるようなものだ。
ただ、私はその1人脳内反省会をする時間が好きだ。なぜなら、99.9%の確率でその後の記憶に残らないものが、確かに地下通路の中では存在するように思えるからだ。今この文を書いている私が、明確に思い返せる反省は何一つないが、確かに地下通路では私はその日のことを思い返している。

だから、私にとっては地下通路=1人脳内反省会の場であり、イコール私のもう忘れた記憶が確かにあった場所である。反省ごとだから思い返したとて決して心躍るものではないし、むしろ自分の嫌な部分が見えてくるものだ。
でも、それを確かに自分が感じたものとして、地下通路に閉じ込めておける感覚になる。

多くの人にとってはただ線路を横切るための地下道なのかもしれないが、私は、無駄に音が響き、どこかノスタルジックで全然オシャレじゃないあの空間が好きだ。だからこそわざわざ通るために「一度西口に出る」というほんの少しの苦労すらする。少しだけ気分が落ち込みながらする私の1人脳内反省会が、最寄り駅の地下通路に存在する。