コンプレックスなんてクソ喰らえ。
なぜ他人が我が物顔で他人を評価しコンプレックスを仕立て上げるのかと、過去の出来事を思い返して不思議に思う。コンプレックスの裏側には、必ず他人の手によってそう感じるように種蒔が行われている。悪意の有無に関わらず。
顔にあるほくろも左腕のアザも気に入っていた。けれど、年齢が上がると大嫌いになった
小さい頃、私は私のことが大好きだった。
特に、顔の真んなか、鼻の付け根にある焦茶のほくろなんて最高にチャーミングだし、左腕にある大きなアザだって気にしたことはなかった。むしろそんな所にほくろがついている子もアザがある子も出会ったことがなく、私が私であるという証みたいで気に入っていた。その証拠に、「もし私と似てる子が出てきても見分けられるね」と母へ繰り返し伝えていたほどである。
けれど、幼稚園、小学校と年齢が上がるにつれて、お気に入りの「自分の証」が途端に大嫌いになった。「女の子なのにアザがあるなんて可哀想」と囁かれ、「鼻のところの黒いの何?気になるんだけど…」と馬鹿にされるようになった。
それ以降、どんなに暑くても二の腕が隠れる袖の長さの服しか着なかったし、鏡を見ては、ほくろを爪で傷つけていた。そうやっていればいつか取れるんじゃないかと思ったから。
余りにもほくろを気にするものだから、高校生になると母に連れられ皮膚科でほくろを焼くレーザー治療を受けた。
麻酔で痛くはなかったけれど、肌を焼く臭いは忘れられないし、一緒についてきた母がどんな思いで治療を受けさせたのかは、幼いながら想像に容易い。
生まれた時からある、どうしようもないものが子供を苦しめるというのは、親すらも苦しめることになるのかもしれない。そう思った時、私は知らぬ内に私を傷つけ追い詰めた人達のことがゆるせなかったし、これ以上の可哀想と嘲笑はいらないと思った。
だって、本当の私は全然可哀想でもなんでもない。全部チャームポイントで、私の証なのだから。
高校生になってレーザー治療を受けた私。一緒についてきた母はどんな思いだったのか
それから、私は久しぶりに私のことを好きになった。
残念ながら、ほくろは完全には取り切れなくて今でも主張しているし、二の腕のアザだって薄くなっていない。
でも、もう一度レーザー治療を受けようとも思わない。どんなに綺麗にメイクしても目立つし、げんなりした気分の日には「なんでそんな我が物顔で居座ってるのよ。許可してないわよ」と恨めしく思う日もある。
けれど、初対面の人に「それほくろ?」と聞かれたら笑顔で「そうですよ、珍しいでしょ」「大仏様みたいじゃない?」と冗談交じりに返すことが出来る。二の腕のアザだって、生まれる時に出来たものだと教えて貰ってからは、途端に気にならなくなった。
だって、私が一生懸命産まれようとした証拠だから。私の身体には、私を私たらしめる特徴が沢山ある。
あなたを傷つける全てをゆるせなくてもいい。それもあなたなのだから
今のご時世、どうしても他人と比べてしまって、苦しんでいる人が多いと思う。身体的にも、精神的にも。
でも、それの本来の姿は自分を苦しめるものじゃないのかもしれない。私のように医学の発展でどうにかなるならしてみればいいし、精神的なことなら成熟する為の一歩なのかもしれない。今すぐにどうにもならなくても、いつかの日にハッと姿を変えてあなたの強力な味方になるかもしれない。
生きていれば「かもしれない」が沢山ある。
「こうしてみよう」もそこかしこに埋まっている。今はいつかの私のように苦しんでいるあなたが、少しでも早く前を向いて生きていける道を見つけてほしい。コンプレックスとの上手な付き合い方は、人の数だけ存在するのだから。
そして、あなたを傷つける全てをゆるせなくてもそれはそれでいいのだ。それもあなたなのだから。