ニューヨークの大通りを、真っ赤のコートを羽織り、真っ黒のピンヒールを履いて、力強く美しく歩くおばあちゃんになること。これが私の理想の未来像だ。
そういう女性になることを強く決意したのは、私が14歳の時である。何歳になっても女性らしく、そして誰にも頼ることなく自分自身で自らの人生を逞しく生きたい。そう自分自身に言い聞かせた。
家庭環境のコンプレックスを隠すため死に物狂いに生きていた
私は母と2人暮らし。現在20歳で、鍵っ子生活はかれこれ12年。人生の半分以上は鍵っ子生活である。学校終わりには、自分で鍵を開け、電気のついていない家に入る。
1人で夜を迎え、母の帰りを毎日毎日待った。塾で遅く帰った時、電気がついていて夕飯の匂いが玄関からほのかに香る家に入るのは、なんだか妙に嬉しくてわざとインタンホンを鳴らした。
母と2人の生活は、幼少の私には辛いことも多かった。
プライドの高い私は、家のことを誰にも知られたくなかった。そして実際に、今まで友人の誰にもはっきりと家庭環境を伝えたことはない。これからも無いかもしれない。
父親がいない可哀想な子、父親がいないからダサい、父親がいないからできない、なんていうレッテルをつけられることを私は絶対に絶対に許さなかった。中学生という多感な時期に、私は真剣にどうすれば弱い奴だと見なされずに済むのかを考えた。必死だった。
いや、今から思えば、当時の私は死に物狂いだった。
誰が私を馬鹿にしていた?本当の敵は他人ではなく自分自身
そこで私は思いついたのである。知識・教養を身につけようと。そして、女性であっても自律して自分と家族を守ることができるだけの経済力を身につけようと。
目標が決まれば、実践するのみである。知識や教養は1日では身につかない。しかし、知識・教養は一生もので、性別も年齢も関係のない最強の武器になると信じた。私は必死に勉強をした。
中学時代は文武両道を目指してテニス部に所属し、2年の時には先輩たちからキャプテンを任せられた。そしてその後、母への金銭的負担を考え、公立高校に進学し、高校時代の成績のおかげで民間団体からの給付型奨学金を得て無事某国立大学に現役で進学することができた。
しかし、大学生になった今、私は何となく気づいているのである。端から誰が私を馬鹿にしていたのだろうか。多少なりとも嫌みを言ってくる人がいたのは事実だ。だが、ほとんどの人は私の家庭環境を馬鹿にすることなどなかった。
私が必死だったのは、私が自分自身に自信がなかったからだ。父親がいない私のことを私が誰よりも許せなかったからだ。
他人に自分がどのように見られるか。他人に自分がどのように映るのか。自分が馬鹿にされないか、笑われないか。いつもいつも自分のコンプレックスが生み出した架空の敵たちの目を気にしながら、私は必死に生きていた。暗闇の中で見えない敵に向かって必死に剣を振り回していた。
あの頃と同じ未来像をもう一度。違う意味を込めて目指したい
このことに気づいた時、私は今までのなんとも言えない己の中にあった孤独感や心に突き刺さっていた大きな大きな棘たちを取り除くことができた。はじめから敵などいなかったのである。
では、私はこれからどう生きていこうか。答えは思ったより簡単であった。
やはり私の理想の未来像は、ニューヨークの横断歩道を、真っ赤のコートを羽織り、真っ黒のピンヒールを履いて、力強く美しく歩くおばあちゃんになることだ。
最初と同じじゃないかって?文章は同じでも14歳の私が込めた想いと20歳の私が込めた想いは全く異なる。
誰にも馬鹿にされないために、また人を寄せ付けにないように、真っ赤や真っ黒の衣服を身につけ大通りを高圧的に歩く女性ではない。年齢や他人の意見を言い訳にせず自分の好きなファッションを何歳になっても楽しむような、自分の人生を自分目線で生きられる女性になりたい。
そして、自分に自信をもつことで家族や周りの人に愛や思いやりを与えられる逞しい女性に、私はなりたい。そのために、私は自分を守るために始めた勉強を今度は自分や周りを幸せにするために根気強く継続していくことに決めた。