私が謝りたいのは、あの時信じてあげられなかった“自分自身”に対してだ。
「負け組」「ダサい」「変わっている」。周りの人にそう思われているとしても、私だけは信じてあげないといけなかった。他人にも必要とされている実感がなく、自分自身にも否定されていた私は、他人の言葉に居場所を求めた。
中学生時代は“かわいい”と言われたくてしかたがなかった。

“かわいい”という言葉が欲しくてたまらなくて、尽くしてすがって自分をすり減らしたって、私が満足するほどに得ることはできなかった。どれだけ認められても、他人の顔色を窺ってばかりいるうちは、惨めだった。

私はかわいい女の子を観察し、その高い声や優しさを真似た

中学に入学して、私は気の合う人を見つけることができなかった。たった40人の中から合う人間を見つけられないなんて当たり前だと思うけれど、あの頃の私にとって、クラスは世界そのものだった。
私が居場所を見つけられなかった世界で、揺るぎのない居場所を見つけているのはかわいい女の子たちだった。男の子たちの会話からは、かわいい女の子の名前ばかりが聞こえたし、かわいい女の子たちの周囲には人が集まっていた。

中学になって、初めて“かわいい”や“モテ”の世界に足を踏み入れた私は、身だしなみからなっていなかった。小学生時代までは、平気でズボンのチャックを開けていたり、タンクトップの裾を服からはみ出させたりしているような、のんきな子どもだった。
そんな幼さを引きずったままの私はクラスの片隅からかわいい女の子を観察し、その高い声や何でもしてあげようとする優しさを真似た。そして、モテる男の子たちに気に入られようとした。

私はそれに見合う努力をせず、相手から“かわいい”という言葉を搾取しようとしていた。
しかし、モテる男の子たちは数段上手で、そんな私や、私のような女の子たちを“駒”として扱った。何人に告白されたか人数を競い合っていたらしい。私は“かわいい”という居場所を求めた結果、数でしか表されないような存在に身を落としていた。

“天使”というあだ名で呼ばれていた彼女は、裏では“ビッチ”と罵られていた

しばらくして気が付いたのは、クラスで一番かわいいと言われていた女の子が、実はクラスで一番の嫌われ者だったということだ。
“天使”というあだ名で呼ばれていた彼女は、裏では“ビッチ”と罵られていた。クラスメイトというだけの私には見えない、部活動という場所で彼女は生きづらさを抱えていた。
そして、もっとよく観察すると、彼女は他人に何かしてあげるときに険しい顔をしていることがよくあった。彼女の優しさも私と同じく、“かわいい”という言葉を言わせるための、自分のためだけの押し付けの優しさにすぎなかったのかもしれない。

嫌われ者の高嶺の花と化していた彼女に彼氏ができたのは、中学を卒業する頃のことだった。それは、彼女をかわいいと噂をしていた男の子でも、女の子たちを“駒”として扱うモテる男の子でもなかった。一緒の体育館で部活動をしていた男の子だった。

周囲の男の子たちが「あの子には悪い噂がある」というようなことを言っている時に、その彼氏は「そんなの気にしないよ」とはっきりとした口調で言っていた。私は会話を盗み聞きしていただけだけれど、どうやら女の子の世界でいじめられても戦っている姿を見て、好きになったらしい。

その後、私は彼氏の方と同じ大学に通うことになり、一緒に授業を受けたり、話をしたりする友人になった。大学生になっても彼女とはずっと続いていて、お互いが居場所になっているのが、羨ましかった。

「私ってかわいい」と自分に言ってあげた方がいい

私は“かわいい”という言葉では、居場所を作ることはできないと知った。そして“かわいい”と言ってくれるだけの他人は、居場所ではない。クラスで一番かわいい女の子の居場所は、自ら戦うことによって見つかった。結局、居場所は他人に求めるものではく、自分自身で作りだすしかないものだ。
そして、“かわいい”という言葉を他人から捻りだそうとするならば、「私ってかわいい」と自分に言ってあげて、自分だけの“かわいい”を作っていった方が居場所に成り得るのではないだろうか。

「かわいい」と言ってあげられなくて、ごめん。
「かわいくない」と否定して、ごめん。
「かわいくなりたい」と、自分らしさを奪ってごめん。
自分に謝りたいのと同時に、私は当時のクラスメイトたちにも謝りたい。

「かわいい」を無理やり言わせようとして、ごめん。
「否定されている」とあなたたちを悪者にして、ごめん。騙せると高を括って、ごめん。
「かわいい」と言われないと生きていけない世の中も窮屈だけれど、「かわいい」と言わせようとしてくる世の中も窮屈だと思う。私自身の「自分らしさ」を好きになって、誰かの「自分らしさ」を大切にできる、そんな世の中が一番だと思う。