平日の昼間。
穏やかな日差しがベッドにそそぐなか、私は、
「顔って、誰のためにあるんだろう」
と、思った。
顔。顔立ち。それは私たち女性が特に、他者から評価され続けている部分だ。可愛い、きれい、美しい。造形が整った顔は評価され、そうでない場合は、されずに貶されたり憐れまれたりする。余計なお世話だと思う。
中学生になって知った「可愛いのは良いこと」という価値観
私の顔の話をしよう。私は比較的、「可愛い」と言われてきた。
私に対してだけじゃなく、周りの同級生や友達のなかで、「女の子の顔が可愛いことは良いこと」という価値観が生まれたのは、中学に入学してからだった。私はずっと共学だ。小学生の頃は、クラスが1組しかなく、クラスメイトが卒業までほとんど変わらなかったこともあってか、男女の壁みたいなものがなく、みんなで仲良くわいわいとしていた。恋愛っぽい雰囲気も、あまりなかったように思う。それだから、「女の子の顔が可愛いことは良いこと」という価値観が生まれなかったのだと、今になって思う。
小学校とは違い、中学は大きな学校だった。卒業した今でも、名前も顔も知らない人が多くいるくらいだ。
中学に入学してまもなく、私の近くに、「私のことをやたら『可愛い』と褒めてくる友達ではない女の子」が現れた。彼女はクラスメイトで、私によく話しかけてきた。内容はほとんど、私に対する「可愛い」だった。
彼女が私の顔を褒めるものだから、私は、顔が可愛いのは良いことなんだ、と思った。
高校生になると「可愛い」に棘が包まれるようになった
高校生になると、「女の子の顔は可愛い方がいいに決まっている」という価値観が教室に充満していた。
休日はメイクをして友達と遊んだ。たくさんプリクラを撮り、自撮りもたくさんした。学校にアイプチをしてくる友達もいた。まるで私たちは、可愛くなければ死んでしまうかのようだった。
私は高校でも顔を褒められていたけれど、それは今までと違い、純粋に心から喜べなかった。彼女達が発するそれが、純粋なものではなかったからだ。褒め言葉の中にはいつも棘が隠されているようだった。
「ねこ美ちゃんは、目だけは可愛いねぇ」と、友達ではない女の子に直接言われたこともある。笑っちゃう。(言わずもがな、これは棘そのものである)
人と会わなくなって「可愛い」を欲している自分に気付いた
そんなこんなで、私は結婚をして主婦になった。学生の時に体を壊し、体が弱くなったための選択である。
主婦になり、また、コロナの流行で、人と全く会わなくなった。
会いたい友達はいるのだけれど、それぞれ住んでいる場所が遠くて、コロナのこともあり、なかなか会えない。そうすると、夫以外の人と会わなくなる。これはこれで、私にとっては居心地が良いものなのだけれど、平日の昼間、ベッドの上でぼんやりとしている時に、ふと、冒頭のことを思ったのである。
友達にも会わず、クラスメイトのような存在にも会わずにいると、彼らからの「可愛い」が、ない(当たり前である)。そのことからきっと私は、その疑問を抱いたのだろう。それは同時に、どこか寂しくもあった。
私の顔は誰かのために存在しているわけではないのに、求められないと、どこか不安になってしまう。私は自分の顔が好きだけれど、結局私も、他人からの評価をあてにして生きていたんだと気づかされた気分だった。
私の顔は、誰かのために存在しているわけじゃない。ただの体の一部。
心からそう思える日が来るように、私は今日も、鏡を見つめる。