最近、結婚が決まった。それは偶然にも、私の両親が離婚を決めた直後だった。
結婚。人生に、自分の最大の変化がおとずれる出来事といえば、私はまず間違いなく結婚を思いつく。長く付き合った恋人とそのまま変わらず一緒に居続けるだけといった、あまり変化のない結婚もあるとは思うが、私にとってはやはり結婚は一大事なのだ。それが今から、自分の身に起ころうとしている。

他人と暮らす生活で耐えてばかりというのは、どんなにつらいことか

学生時代から結婚願望はそれなりにあって、祖母と母が結婚した歳である24歳に自分も結婚をするのだと心の中で決めていた(それなのになぜか結婚しなさそうとか遅そうとか、よく言われた)。それが何の意味もない決心だったことには、恋人なしで迎えた24歳の誕生日を過ぎて、今から結婚しようとしている彼に出会ったとき、やっと気が付いた。きっとこの人に出会うための人生だったのだと思えた彼だったから。

そうとはいえ、実は私の中での結婚は、あこがれの幸せな生活でもなく、ハッピーな家族像が浮かぶものでもなく、「耐えるもの」という意識があった。それはもちろん両親の影響で、短い文章ではとても説明できないほど、「家庭」に潜む様々な問題を小さいころから目にしてきたためだ。誰でも両親の些細なケンカや家族の不穏な空気というものは少なからず経験するに違いないけれど、それにしても離婚の結末を迎えたことを考えるとなお、なるほどそう着地するくらいには大変だったのだと腑に落ちる。怖いのは、私自身が耐えることで物事を進める癖があることだ。不平不満を言わないので平和な人間だと思われがちで、実は言えないだけなんてことはよくある。他人と暮らす生活で耐えてばかりというのは、どんなにつらいことだろう。そんな風に考えてしまう自分がいる。

「男は結婚をしたがらない」というイメージを植え付けられた

それに加えて、ちょうど24歳の誕生日目前に別れた元恋人の影響はかなり大きかった。自由で結婚という概念にとらわれない生き方に、「私も自由でいいんだ、人と同じでなくてもいいんだ」と思わせるところがあり、初めこそ私の心に新しい風を吹かせてくれた。だが、長く付き合ううちにそれではこの関係はどこに向かっていくのかと疑問を持たざるを得なかった。そういう疑問を持ってしまう時点で、一緒にいるべき理由を見つけることができないくらいの関係性だったのかもしれない。とにかく私はこの時期に「男は結婚をしたがらない」というイメージを植え付けられてしまった。

そんなにもイメージの悪い結婚、だがしかし怖いもの見たさがむくむくと育ったことにより、ふんわりした結婚願望を現実的な冒険として実現させてしまった。
一言でいうと、結婚は巣立ちだ。生まれ育った家庭から放流され、父の役割、母の役割、そして夫婦という役割を担うようになることは、想像以上に勇気がいる。

人と人とは、どう関わり合ってどのような関係になっていくのか

それでも私が結婚をしようとしているのには、わけがある。「おもしろそうだから」である。相手が大好きだからとかいう理由よりも(彼には秘密)、周りが結婚していくからとかいう理由よりも、自分がやってみて確かめたいからなのかもしれない。周りを見渡しても、いい例も悪い例も参考にはなるけれど、結婚とはこうだ、というものは一つとして無い。人と人とは、どんな関わり合いをしてどのような関係になっていくのか。一番知っていると思っていた人の見せる新しい一面はどんなものなのか。それを知って、新しい形を作り出してみたい。新しく誕生する「家族」の形を。
明るいニュースに、私の家族も彼の家族も、友人も祝福の言葉をかけてくれる中、私の中では喜びの片隅に、固い決心と、不安、そして好奇心が渦巻いている。

私は笑顔でこの人を守り続けられるのだろうか。いつかひどく傷つけてしまうのではないか。逆に、深く心に刺さる現実を突きつけられるかもしれない。味方になってくれなくなるかもしれない。それでも私は自分が選んだこの人と一緒に生きていく。大変かもしれないことは、実はとっても興味深い研究材料になるのかもしれない。
私の人生をおもしろくする舵取りは私にしかできない。だったらやってやろうじゃないか。
私が私であるために。