昨年、2歳下の妹が結婚した。今年の4月には姪が生まれる予定だ。
若くして結婚して母になる妹に対して、世間の風当たりは強かった。
しかし、彼女に迷いはなかった。最近よく聞く「授かり婚(デキ婚とは呼ばなくなったようだ)」という形ではあったが、私はこれも母が結婚に反対することを見越した彼女の作戦だったのではないかと踏んでいる。
妊娠がわかる数か月前、妹は神妙な面持ちで「結婚しようと思う」と私に告げた。
彼女は絶対に自分の選択を後悔しないと言い切った。自分の人生、そして夫になる彼氏、いつか生まれるかもしれない子ども、全てに責任を持つ覚悟があると言った。
その真っ直ぐな眼差しに、私は思わず「結婚しても幸せになれるとは限らないよ」と意地の悪い言葉を投げかけていた。
私たちの両親は結婚して幸せにならなかったパターンであった。私たちはその不幸な結婚生活を一番近くで一緒に見ていたはずだった。
彼女は笑って、「私には上手くやる自信がある」と言って見せた。その発言に根拠はあるのか、なんて聞くだけ無駄である。根拠なんてあるわけがない。私の大好きな妹は、私とは違って、直感に従って生きるのが得意なのだ。
結婚したくないというよりも、私は離婚したくないのだ
一方、理屈っぽい姉の私はどうだろうか。
今年大学4年生になる私は、昨年人生初の彼氏が出来たばかりである。
そして、私には彼女のように結婚生活を上手くやる自信は全くない。
「結婚なんてまっぴらごめん、人生の墓場じゃないか!」と思っている人間である。
しかし、妹の結婚という出来事を機に、「なぜこんなにも結婚したくないのか?」という疑問が生まれた。
まず結婚の何が嫌なのか。法的な契約であることが嫌なのか、どちらかが名字を変えなくてはいけないことが嫌なのか、血の繋がらない家族が増えることが嫌なのか。
考えてみれば、そこまで大きく嫌がる理由は思い当たらない。
この漠然とした結婚へのマイナスイメージには、「結婚は上手くいかない」という前提が存在していることに気づかされた。
思えば、最も身近な夫婦の例である両親は、会話はなく、お互いへの愛情も感じられず、バラバラな二人を無理矢理繋ぎとめる鎖のような自分の存在が申し訳なく感じることすらあった。
「私が結婚に悲観的なのは親のせいだ」と言いたいわけではない。
実際、妹は前向きな気持ちで結婚したのである。全ては私の捉え方にある。
生まれて初めて彼氏ができたことで、「結婚」というものが以前よりも現実味を増して考えられるようになった。
彼への思いが溢れるあまり、「ずっと一緒にいられたらいいな」と思ったこともある。
しかし、やはり私は結婚したくない。というよりも、離婚したくないのである。
石橋が崩れ落ちるのが怖くて叩くことすらしない私と一気に渡りきる妹
結婚しなければ絶対にできないもの、それが離婚である。
そもそも、結婚も離婚も関わる人が多すぎる。交際はお互いの同意さえあれば良いのに対し、結婚と離婚には証人が要る。
そんな大層なことをしなくても、一緒にいたいと思うなら一緒にいれば良いじゃないか、その関係に法的契約や改姓なんて必要なのだろうか?、どうしてもそう思わずにはいられない。
石橋が崩れ落ちることが怖くて渡ることはおろか叩くことすらしない私と、叩くこともせず「大丈夫な気がする!」と直感を信じ一気に渡りきる妹。
臆病な私はどうするのだろうか。妹の背中を追いかけるように石橋を渡るのだろうか。
きっと私は渡らない。
不安定な石橋を渡るのは私らしくないと、石橋を諦めて別の方法で向かうだろう。
しかし、それで良いじゃないか。
石橋の向こうに幸せな人生があるとして、そこへ向かう方法は一つではないはずだ。
「結婚」が幸せな人生の必須条件である時代はとっくに終わった。
「結婚」はもはや人生のオプションのひとつに過ぎない。ご自由にどうぞ、だ。
社会的な価値観に依存した「正しさ」ではなく「らしさ」を大切に、私は私の人生を生きる。