結婚、どう思う?
そう訊ねられたならば、私は「安心」と答えるだろう。
ここで私が言う「安心」とは、名誉や権威、財力といったものとは違うものだ。
「私なんて」な私でも結婚できた。それが涙があふれるほど嬉しかった
私は現在、ありがたいことに結婚することができたのだが、結婚前は3つのコンプレックスからなる不安に襲われていた。
まず1つめのコンプレックスは、私がバツイチであるということである。1年足らずで終わってしまった結婚生活で、私は信頼や自信を失くした。
2つめのコンプレックスは、数年間付き合い続けている精神疾患。こればかりは自分の努力でどうにかできる問題ではなく、それが3つめのコンプレックスである仕事の不安定さに繋がってしまったのだ。
バツイチで、精神が不安定で、かつ仕事もうまくいかない。そんな私を誰がもらってくれようかと、夜な夜な布団の中で理想と現実との違いに涙する日々。
何もかもがうまくいかない、そう思い絶望しかけていた頃に、私は現在の夫と出会うことができた。
出会ったきっかけは婚活アプリ。私はいたって真剣な気持ちで異性とのやりとりを進めたのだが、中には心ない言葉で私を傷つけてくる人もいた。
私が婚活を始めた時期と、偶然にも夫が婚活を始めた時期と一致したため、私は夫との縁をつないでいくことができた。
それでも私の思う「安心」はまだ感じられず、これを言えば嫌われるのではないか、これをすれば離れていくのではないか、様々な不安がまたものしかかってきた。
それでも不思議なことに縁は途切れずに交際1年が経ち、私たちは入籍した。
すとん、と、私の心のどこかで小さな私が腰をおろす音が聞こえた気がした。
こんな私でも結婚できた。それだけのことで涙があふれるほど嬉しく、様々なことに対してやる気が出るようになった。
私が何を考えているのか、常に夫は読み取ろうとする努力をやめない
結婚してから数か月後、私の病状は悪化。夫に対してひどい態度を取るようになり、社会的に弾かれてしまうような水準まで達しそうになっていた。
周囲は入院を勧めた。社会から私を隔離したほうがいいと判断したのだろう。それでも唯一反対し、私をそばに置いておくことを主張し続けたのが夫である。
なんでそこまで私のことで必死になるのだと、暴れながら叫びながら、私は夫につかみかかった。それでも夫は私を突き放すことはなかった。必ず、大丈夫だから一緒に寝よう、と言ってくれるのだ。
それからまた少し経ち、私は落ち着きを保てる時間が日に日に増えていった。
今もふと顔を上げると、ほぼ必ずと言っていいくらい夫と目が合う。私が何をしているのか、何を考えているのか、常に夫は読み取ろうとする努力をやめようとしないのだ。
私の心に「安心」という熟語が浮かび上がる。そしてそれはとてもあたたかく、まるで母親の腕の中のような、陽の光にあてた布団のような、不思議で懐かしくやさしい香りがする。
私たちの経済力は決して豊かであるとは言い難い。しかしながら、それが不幸だ不便だと感じたことは一度もない。
2度目の結婚で、私は漠然と心の中に存在し続けていた「安心」に対する欲求を味わうことができた。
もちろん、安心の定義は人それぞれだ。私たちもまた、老後の生活に関する資金のこととなると不安がゼロではない。それでも、心の中は毎日あたたかいままだ。
私にとっての「安心」とは「あたたかさ」だった
私にとっての結婚とは「安心」。そして私にとっての「安心」とは「あたたかさ」だったのだ。自身の不安ごと「私自身」であると認めて包み込んでくれる人、それが現在の夫だ。
結婚することの幸せは、身近なものにこそある。自身の内にこそある。あれこれと高望みすることは簡単だが、こうして毎日の些細な笑い声を尊いと思えることの方が難しいのだろうと思う。
私がそうであるように、夫もまた完璧な人間ではない。完璧な人間など存在しない。きっとこれからも騒々しく喧嘩をすることもあるだろう。それでも夫はきっと最後には腕を広げて、私を「安心」の場所へ戻してくれる。
夫よ、見ていますか。私はあなたが思っているよりも「安心」しています。寒々しい場所からあたたかな場所へ救い出してくれたあなたのことを、私は一生見つめ続けたい。
結婚は、安心でした。