「俺、絶望することが好きなんだよね」

頭が恐ろしく良くて、それでいて努力家、気遣いもできて、いいところに就職も決まって、言葉選びも素敵で、資格もたくさん持っていて、さらに気さくで。自分もこの人みたいだったらもっと自分を肯定して生きていけたのかなあと思うような先輩がいる。
この前、そんな先輩が病んでいるところを、初めて見た。
その時私は、こんな理想的な人でも「自分なんて」って絶望することがあるなんて、私がいくら頑張って理想に近づいても一生自分のことを肯定できる日はないのかもしれないと思った。でも、先輩が、絶望することが好きと言った時、ああ、それもありなのかと腑に落ちたのだ。

自己肯定感の低さ。それは、諸悪の根源とでも言いたげに私の中に居座っている。
実際、私が落ち込んでしまうのは、自己肯定感が低いからなんだと、なんとなく思っていたし、だからこそ、自分のことを認めてあげるために、大学に入ってからも勉強を頑張り続けているんだと、信じていた。

だけど、勉強すればするほど分からないことが増えていく。上に行けば行くほどもっともっと上が見えていく。
つまり、やればやるほど絶望していく。そういう構図になっていることは、今思うと、最初から気がついていたのかもしれない。

自己肯定感を高めるために競争の世界に飛び込むのはなぜだろう

そう確信することになったのは、某有名雑誌のモデルオーディションで賞を獲ったことのある東大の方が、
「私は、自分に順位をつけてもらわないと自分のことを認められないところまで追い詰められていた」「でも結局、肩書きを得た後にも、肩書きのイメージと自分との間の乖離に悩んでしまっている」
と言っているのを耳にした時だ。
この人は、自分を肯定するためにオーディションに出たのか。でもそうだとしたら、やり方が間違っているんじゃないかしらと、ふと思ったのだ。

自己肯定感を高めたいなら、上を目指すっていうのより、もっといい方法があるはず。
無条件に自分を肯定すればいいわけだし、比べる対象のレベルを下げることだってできる。それでも、競争の世界へと飛び込んでいく。どうしてだろうか。

理想と自分自身の間に大きなギャップがあるから自尊心が低くなる

大体、自己肯定感が低いと人が感じるのは、むしろその人の中で相対的に得意な分野について考えるときだ。
「自己肯定感低いなあ」って感じているんだとしたら、それはもう、「本当は、ここまで『自分なんて』って卑下しなくてもいいはずなのに、卑下してしまう」って思っているということではないか。それだけ分かっているなら、答えはこうなるはずだ。
自己肯定感を高めるために、頑張って何か高みを目指したり、人と競争したりしているわけじゃない。逆だ。何か高みを目指したり、競争して勝ったりするために、自己肯定感を自ら下げている。
私なんて、俺なんて、まだまだだ、もっと努力しなきゃいけないのにと言った時、それはつまり、まだ上を見ているということだ。理想と自分自身との間に大きなギャップがあるから、低い自尊心が生まれる。

先輩の「絶望することが好き」という言葉の意味。それは、上に行けば行くほど、何かができるようになればなるほど、まだまだ先があると、より実感することになる。その絶望感を、自分の力の源泉として肯定しているってことではないか。

自分のことを大事にするというのは、自分のことを一生懸命考えること

当たり前の答えかもしれない。だけど、わたしはそれに気がついた時、はじめて、自分を大事にするというのはどういうことか?という問いに暫定解を出すことができた。
自分を大事にしてあげるというのは、自分の良いところもダメなところも無条件に肯定してあげることなんかじゃない。
「自分のダメなところも全部好きなる」「私は私のままでいい」という言葉を最近はよく耳にするけれど、自分のダメなところを全部好きになったり、肯定したりするなんて、一生かかってもできない。

自分のことを大事にするというのは、ただ自分の全てを肯定するのではなく、自分のことを一生懸命考えてあげることだ。
私ってなんなんだろう。なにがしたいんだろう。どうして自尊心がこんなにも低いんだろう。そうやって考える過程で、自分のダメなところも、まだまだだなと思う現状をも認める。それが私にとっての自己肯定だ。
「私は私のままでいい」よりは、「私は今の私のままを見つめることができたら、それはちゃんと自分について一生懸命考えようとしているってこと、大切にしてるってことだから、それでいいんだよ」の方がしっくりくる。ずっと考え続けて、やっと、絶望するところから、私の肯定は始まったのだ。