「恋愛はするべきだよね」「恋人がいないのは寂しいなあ」「好きな人いないなんて
人生損しているよ」
小さな頃からよく耳にしてきた言葉たち。今でもよく聞くし、テレビや雑誌で「恋愛マンネリからの脱却」「恋人を作るには」のような題目で取り上げられているのもよく目にする。そして私も、そうであると思い込んでよく口にしていた。
『みんなの恋愛に対しての執着』に疑問を持ち始めた
中学生の頃は特にそういった話題にとても敏感で、みんなが周りの人の人間関係に興味津々だった。
「Aちゃんがあの人のこと好きらしいよ」「BちゃんとDくんは別れたけど、Bちゃんはまだ好きなんだってさ」「△△ちゃん、まだ一回も付き合ったことないのやばくない?」
こんな噂が立つのは珍しいことでもなく、むしろ日常茶飯事だった。私はその会話に乗り遅れるのが嫌で、話を聞いては大袈裟にリアクションをとりながら友達と盛り上がっていた。
しかし、ある昼休みに事件は起こった。それは私の根も葉もない噂が教室中に広まっていたことである。内容は「私がAくんのことが好きらしい」というものであった。どういう経緯でそうなったのかというと、私がAくんのことを「かっこいいよね」といったことが原因だった。今思うと、子供の単純な思考でそうなってしまったことは仕方のないことと割り切れるかもしれない。けれど、当時の私はその頃から『みんなの恋愛に対しての執着』に疑問を持ち始めてしまったのである。
どうして『恋愛=するべきもの』なのだろう
大学になっても、私の身の回りでは多くの恋愛話で溢れていた(それも、あまり確証のないようなものばかり)。私は、「彼氏がいないよー寂しいよー」と嘆いている友達にモヤモヤとした感情が止まらまくなった。そして、こんな感情が芽生えてきた。
どうしてみんなの中で『恋愛=するべきもの』となっているのだろう。
恋愛は、しなければならないもの。確実な原因はないものの、昔からこのような世間からの固定的概念に縛られてきたのは確かだ。それに影響されるのは個人の自由であり、人それぞれだからおかしいとは思わない。恋愛至上主義の人も実際多くいるだろう。
けれど、その考え方が“当たり前”だと認識して、他の人にも共感してもらおうと話を進める人が多すぎる。「それはおかしい。そんなことないよ。」私は、声を大にして言いたいけれど、自分だけ違う意見を言うことに勇気が出なくて、みんなに同調する。そして自分が情けなく思えてくる。この悪循環の繰り返しだった。
恋愛は自由である。恋愛に縛られなくてもいい
そんな時、Twitterのある呟きを目にした。
『つい最近「恋愛経験をしてこないと大人になってからこじらせる」みたいな意見を見て、まだそんなこと言ってるのかいい加減にしてほしいと思った。必要なのは「恋愛をしなければいけない」という強迫観念からの脱却だろ』
ユーザー名や名前は覚えていない、ただ偶然目にしただけのツイートだったが、私は少なからず、この言葉に救われた。というのも得体の知れない世間からの強い固定概念という荷が少し軽くなった気がした。
「別にそこまで気負いする必要はないんだよ。自分は自分の優先順位があるわけだから、周りを気にせず楽しいと思うことを全力でやればいい。」こんなようなことを言われている気がした。顔も知らないある人に励まされたのだ。
それからは、あまり真正面から受け止めずに、聞き流すことも生きてゆく中で大切なことであると学んだ。それよりも同じような価値観の人を見つけることがもっと大事だし、人生より豊かにしていけるとも思った。よりありのままの自分を大切にしよう、そう思うことができた。
私のように同じ悩みを抱えている人も中にはいると思う。そんな人たちに私はこの言葉をかけてあげたい。自分だけが違う感覚を持っていたって悪いことじゃない。自分の中で恋愛だと思えば恋愛だし、別に恋しなくていいやとなるのも良し。恋愛は自由である。恋愛に縛られて生きていく人たちが少しでも減りますように。