ダイエットらしいダイエットはしたことがない。しかし体型は気にしている。鏡を見る度に、自分の写真を見る度に気にしてしまう。
スタイルキープはするようにしている、と言えば聞こえは良いが、ある言葉を言われない為だ。
それは、「デブ」。【私を変えたひとこと】だ。
静まり返った電車内。身内の侮辱的な言葉で、心の器から水が溢れた
中学1年の時だっただろうか。都内の電車に当時身内だった人(以後身内Bとする)と一緒に乗っていた時のことである。
周囲は誰1人として話していなかった気がする。それだけ静かだった。私は吊り革を持って立っていた。その時、身内Bが私の顔を見て、
「デブ」
とニタニタした顔で言ってきた。
「……」。
私は無言。
「デブ」。
何度か言ってきた。その言葉は電車内に響く。
正直に言って恥ずかしかった。自分が電車内で侮辱されていることに対し、また、身内Bと身内だということに対し恥ずかしかった。
中学生だった私は、後に何をされるかわからないという恐怖があったため、口答えはできなかった。同時に、本当に私は“デブ”なのかもしれないと考えもした。
誰かに助けを求めても誰も助けてくれない。何せその場にいた唯一の身内に言われたのだから。公の場で侮辱される私。逃げ場もない。心の器から水が溢れた。
他人からの心無い言葉。いつしか「自分はデブ」だと思い込んでいった
中学1年の私は、覚えている限り身長168cm弱、体重64kg程だった気がする。BMI23程、数値的には肥満ではない。外見はぷっくりしていた。顔が非常に丸かった。
当時の中学のブレザーは、今後太るかもという理由で、大きめのサイズを着ていた。「私はより“デブ”になるのだ」と思う私がどこかにいた。
身内Bは私に本をくれた。そう思いきや、メタボリックシンドロームについての本を私に与えていたのであった。何冊もあった。読む気になんかならない。1ページも捲らなかった。すぐカラーボックスの奥行き。「ありがとう」など思わなかった。心の器の水が波打つ。
家庭で“デブ”と言われていた私。学校では、一度だけ言われた。
それはことが起こった同じ中学1年の時である。私は1人で帰る時、名前も知らない先輩に靴箱で、
「デブ」
と大きな声で言われたのだった。
突然過ぎて何がなんだかわからない。次の日には先生に伝えて怒ってもらった。怒ってくれる人がいるということは、良いことだ。心の器の水が鎮まる。
複数の人に“デブ”と言われた私は、“デブ”なんだと鏡を見ながら思った。“デブ”と人を侮辱する台詞が飛ぶ度、自分のことのように思えた。言われたのが私ではなくても私のように思えた。心の器の水が波打ちそうだ。
鏡やショーウィンドウに自分の姿がどう映るかを気にする日々
“デブ”と言われたからと言ってダイエットする気は起きなかった。何も気を遣わない訳ではないが、量を減らすなどの食事制限や特別な激しい運動といったダイエットはしなかったのである。
体重や体型は、環境が変わる度に、歳を重ねる毎に変わっていった。中学時代の体型とは異なる。大人になった今、昔を知る人には、「痩せた」と言われる。
“デブ”と言われてから、私は毎日鏡で自分の裸体を確認。気に入らない部分を確認。気に入らない部分は、そこを落とすための自宅で出来る簡単な運動をする。
食事は野菜中心。夜はなるべく米や小麦をとらない。しかし、食べたいお菓子は我慢しない。我慢がストレスの原因になり、より食べてしまうためである。私にとって食は生きる上で楽しみの1つなのだ。食べ放題など行ったら、他の食事の量を減らす。
街を歩けば、ショーウィンドウや乗り物の窓、ありとあらゆる場所に映る自分の姿を凝視する。「私は“デブ”じゃないだろうか?」と確認。太って見えると落ち込む。心の器がゆらゆら揺れる。
自撮りをする時、太って見えて仕舞えば撮り直し。お気に入りの1枚を撮るために30分かける時もある。自撮りでどうにもならなかった時は加工アプリで体型を変えた時もあった。
近年、加工アプリで顔を変えることが当たり前のようにされているが、私は目より輪郭を気にする。太って見えないことが大前提なのだ。
それでも、ありのままの自分を受け入れてほしいから
太って見えるかどうかを気にする。では、何故、私はダイエットを本気でやらないのか。それは、そのままの自分を受け入れて欲しい、という欲望があるからだ。太って見えるかどうかを気にするが、そのままの体型の自分を1番愛して欲しい。そのような思いが常にある。
それは、身内に侮辱されたところから来ているかもしれない。身近な人間によってつけられた傷は塞がり難い。
現在だから思うこと。まだ過去の傷は塞がっていない。私はきっと“デブ”という言葉を心のどこかで拒否の言葉だと思っているのであろう。それは私自身の存在拒否。また誰かに“デブ”と言われ私自身を拒否するのではないか?という恐怖がある。世の中の全員に好かれることなどないのにも関わらず。拒否されない為にしている行動かと思うと、心の中の器の底に穴が開きそうだ。
10年以上経つにも関わらずまだ覚えている電車での出来事。侮辱されることにより、自分の姿・形を気にするようになった。それは誰かに受け入れてもらうため。しかし本当はそのままの私を受け入れてほしい。
理想と本当の思いが交錯する中、今日もまた鏡に映る私を見る。
太っている、太っていない、を気にしないで生きていきたい。