「想像力ないね」
まぎれもないこのひとことが今の私を作り、今の私を私たらしめている。

もう7年も前のこと。当時付き合っていたパートナーと喧嘩をして、私はいつも通り自分を守って相手を打ち負かす隙を探していた。だが、悔しいことにこの言葉には反論より先に私の涙が出てきてしまった。自分にとって一番痛いところを突いたトドメのひとことだったから、涙は我慢できないくらいとめどなく流れてきた。自分のダメなところって自分ではなかなか認めづらいもので、彼にこうやって言われなければ一生真正面からは向き合えないものだったかもしれないと今思っている。

相手の過去や経験、現在に至るまでを全く想像していなかった

自分は想像力がない、だなんて当時の私は想像もしていなかった。人が言いたいことを汲み取るのは上手な方だし、大人の顔色を伺ってその時に一番正しそうな対応をするのは本当に得意だった。しかしここでいう想像力がない、というのはそんなこととは根本から異なる話で、それはつまり「自分よがりに生きている」ということだと喧嘩後の対話で解釈した。私は相手がどんな背景を持って今ここに私の目の前に存在しているのか、想像しようとしていなかったことに気付かされた。喧嘩の発端なんて多分小さなことで今では覚えていないけど、確か私が、彼の怠惰に見える行動を「怠惰だ」と訴え、変わるための努力をして欲しい、なんてことを言ったような記憶がある。相手がどんな過去を歩んで、今この行動をとっているのか全く想像しようとしていなかったから言えた言葉だった。想像力がない自分、という自分史上一番情けないこの事実を、咀嚼して、自分を変えるきっかけにするのには少し時間がかかった。なぜなら、事実を前にどうしていいかわからなかったからだ。だから私は、「他者への想像力」について大学在学中の時間をたっぷり使って経験し、考えた。

機嫌も努力も、自分の生まれや環境によってはどうにもできないことがある

そもそも当初の自分のスタンスは、自分は人生の一部をコントロールできるんだ、という幻想によって育まれたものだったと思う。そして多くの人も、私と同じように人生の一部はコントロール出来ると信じすぎている節があるかもしれない。機嫌が悪い自分に対して「自分の機嫌も取れないなんて未熟な大人」と思う人がいるかもしれないし、勉強ができない子どもに対して「努力不足だ」と言う人がいるかもしれない。しかし機嫌も努力も、自分の生まれや今の環境によってはどうにもできないことがある。そして現在の、新型コロナウイルスに罹患した人に対して「自己管理がなっていなかった人」と外野からのバッシングが止まない狂った状況からも世の中のコントロール幻想がうかがえよう。機嫌や努力や感染対策、そして感情や思考や環境に至るまで、さまざまなことをコントロールできたら素晴らしいしラッキーかもしれないが、実際にコントロールできることなんて本当に一握りだ。

想像力について考えた結果を、私は大学の卒業論文に纏めた。他者への想像力とは、それすなわち「個人が知識を活用しながら共感の限界や制限を押し広げて、自分とは異なる他者を理解しようと努める力」と私は暫定的に定義している。きっと私たちは、共感ができないし、ましてや理解もできない事実にたくさん出会ってきているはずだ。しかし、それらを理解できないと蓋をしたり、切り捨てるのをどうか一旦保留にしてほしい。その理解さえできない事実の裏には、誰かが長い時間かけて育んだ当たり前だったり正義だったりどうにもできなかった背景なんかがあるかもしれないからだ。目の前の人やことに対して、いい悪いをジャッジしたり、心ない言葉を発して傷つけてしまう前に、まずは目の前の人やことをどうにか理解しようと努める姿勢、「想像力」が大事だと思っている。

一番近くにいる人が自分と全く異なる人間と気づくことから始める

そんな想像力があふれる世界は、明るい未来だ。彼との喧嘩から想像力について考え始めた私だが、他者との関係性はもちろん、国同士の喧嘩もマイノリティの生きづらさ問題も想像力で解決に近づけられると確信している。だから、今一番近くにいる人間が、自分とは全く異なる人間だということに気づくところから毎日を始めたい。自分が他者に想像力を持つことから始めたい。

「想像力ないね」のひとことが、私が世界に対峙するスタンスを変えた話だ。いまだに信じられないが、私を変えたひとことをくれた彼は先日不慮の事故で亡くなった。でも彼のひとことは私の中で生きていて、育っている、そしてこれからも育てていく。私は死ぬまで「想像力を持とう」とし続ける自分でありたいし、想像力がある社会を創ることの一部を担って生きたい。