私は「根性が曲がっている」らしい。この事を指摘したのは父だった。

と書くと、私が壮絶な家庭に育ったのだという誤解を産みかねない。しかし、父が発したその言葉には、全く悪意が無かったという事を私は断言できる。なぜならそれが、ボーリング場の中でのみ、発された言葉だったからだ。

「ボールが曲がるのは、根性が曲がっているからだ」という暴論を、父は面白おかしく私に向けて投球してきた。9歳だか10歳だかの私が、ガーターフェンスに球を激突させながら遊ぶ姿は、確かにボーリングというよりはピンボールの様だった。それ以降その「根性が曲がっている」というフレーズは、何だかポップなニュアンスを帯びて、私の自認する個性の一部となっている。

理科の先生の指摘はごもっとも。でも、私の中で理系の道は閉ざされた

また、私は「こだわりから抜け出せない」らしい。この事を指摘したのは小学校の理科の先生だった。

と書くと、私が理科の先生から不当な発言をされて傷つけられたかの様だ。しかし、その声掛けにも悪意はなく、それは理科室の中でたった1度きり発された言葉だった。

電気に関する学習を行う中で、みんなで考察を立てていた時の事。生粋の文系だった私は「電池は液漏れする」という事実と「電流」がなぜか脳内でゴチャゴチャになっていた(どっちも水っぽいから?)。

今思えば、そこには全く関係性がないし、理科の先生の指摘はごもっともである。しかしその発言は、私のその後の人生における理科的思考回路をショートさせるのには十分な威力を持っていた(数年後、水流モデルとか言う思考法を知って私はより混乱し、理系への道は完全に閉ざされた)。

中学の先生同士の会話は、「二番手」に徹する私をつくった

そして、私は「そういう子ではない」らしい。この事を指摘したのは中学校の先生達だった。

と書くと、そういう子ってどういう子?という話なのだが、それはいわゆる「リーダータイプ」というヤツだ。私がそういう「リーダータイプ」ではないと、先生同士の会話の中で太鼓判を押されているのを、私は盗み聞きしてしまった。

確かこれは中1の冬、宿泊学習中の事。私はその時、スタンツのリハーサルに召集されていた。規定の時間になるのを待っていた学年の先生達が、私がホワイトボードの後ろに立っているとは気付かずに私の話をし、それをご本人(私)が偶然立ち聞きしてしまったという形である。

当時私は、委員長や学年総務などといった花形業務には立候補せずに、そういった目立つ子の隣に立っていた。そこからしか見えない景色が好きだった。

しかし中学卒業まで生ぬるいポストばかり選んできた事と、先生達の「そういう子ではない」認定を1年生の時に盗み聞きしてしまったという事との間に、因果関係が無いとは言いきれない。平たく言うと、引っ張られた可能性も、あるっちゃ、ある。

大人たちの何気ないひとことが、私の胸の底に沈殿し、地層をつくる

「根性が曲がっている」とか「こだわりから抜け出せない」とか「そういう子ではない」とか。この様な、的を得た悪意のない鋭めの指摘が胸に残るという経験が、私には割とある。

それによって深く傷つくという訳ではないし、それらを発言した人を嫌いになる事もないのだけれど、何だか尾を引く様なこの感覚。後々考えてみると「あのひとことが、私の選択に影響与えたかも」と思わざるを得ない。だって実際、10年、20年、忘れられていないんだから。

とはいえ私は、本当にそういう子どもだったし、29歳になった現在も多少そういうところがある。だからこそそれらのひとこと達は「言い得て妙だな」と腑に落ちて、未だに胸の底に沈殿し、地層を作っているのだ。

そして、そんな子どもだった私がこれまで下してきた人生の決断があるからこそ、私の性格の根幹部分が、その地層にしっかりと根付いている。それらの未だに忘れられないひとことをバッサリと否定する事は、今現在の私にはできないし、きっと否定する必要もない。

他社による鋭いラベリングを、「糧」にする生き方を

他者によって言語化された、自分の性格に関するラベリングは、中々剥がせない。自身の柔いところを的確に刺されたならば、それは尚の事である。私は他者から言葉という鏡を突き付けられた事で、それまで見て見ぬ振りをしてきた、自身の柔いところと向き合うキッカケを得た。

この「私を変えたひとこと」という募集テーマで書かれる様々な文章は、どれも自己分析、いや、他己分析の色を帯びるのかもしれない。私の場合、「根性が曲がっている」とか「こだわりから抜け出せない」とか「そういう子ではない」とか、それらは自分だけでは決して直視出来なかった私の個性だ。

しかし、父や先生達に指摘されて向き合えるようになってそれ以降は、時折それを武器にしたり、アップデートを試みたり、または笑い飛ばしながら生きることが出来ている。そう思うと、それらのささやかなひとことは明らかに、私の生き方を変えている。

私はこれからもこうして、他者からの鋭めのひとことを糧にして生きていける人間でありたい。それが「根性が曲がっている」「こだわりから抜け出せない」「そういう子ではない」、そんな私の生きる道だ。