かつて、ヘビークレーマーに悩む私を救ったのは、クレーム対応のアドバイスではない。

中堅社員と呼ばれるようになり、慣れない「チーフ」の肩書が重くて仕方がなかった頃。私は、非常に厄介なクレーマーに悩まされていた。
はじめは、弊社へのご要望、政治への不満、電話をとった新人君への指摘。日が経つにつれ、私の話し方から学歴、人格にいたるまで、とにかく否定し、電話口で何十分も怒鳴り散らす。
表向きは、後輩に対する見栄もあり、「まぁ、こういうクレームよくあるから、回して」なんて言っていた。ところが、ご指名で何日も続くクレームに、次第に電話が鳴るたびに身構えるようになった。寝ても覚めてもクレーム対応のことで頭がいっぱいで、なぜか口内炎だらけになった。

周りの人は、優しかった。
女の子たちは、口々に「大変だったね!」「何その人!最低じゃん!」「文句があるなら来なきゃいいのに」と言ってくれた。私の心の叫びを代弁してくれているかのようだった。解決策を示してくれる人もいた。直属の上司は、「クレーマーのタイプ別対処法」という自作マニュアルを持って現れ、男友達は「俺の経験上、最初の対応が女の時は男が出たほうが上手くいくんだな」という興味深い仮説を展開してくれた。どこからか聞きつけた取引先の方が、「お清め塩」と書かれた入浴剤をくれたりもした。

「大丈夫です、とか迷惑かけて申し訳ありません、とか言ってない?」

しかし、私を救ったのは、クレーム対処法でも、お清めでもなかった。
それを授けてくれた彼は、自分にそういう経験はないから何もアドバイスをしてあげられないけれど、と前置きした上で、こう言った。
「いろんな人が心配してくれるでしょ?大丈夫です、とか迷惑かけて申し訳ありません、とか言ってない?」
図星だった。
「そういう時は、『ありがとう、頼りにしています』だよ」

実践の機会は、すぐに訪れた。
チームの女性から「例のクレーム氏、〇日にいらっしゃるそうです。大丈夫?」とメッセージが入ったのだ。反射的に「大丈夫です。ご迷惑をおかけしてすみません。」と入力した。そこで、彼の指摘通りだと気付く。いかんいかん、と入力したばかりの文字を消し、「ありがとうございます。頼りにしています!」と送ってみる。即座に「任せてっ!クレーム氏から守るわっ!」という、妙に威勢のいい返信が届いた。

エベレスト級に高いプライドのてっぺんで勝手に高山病になっていた

「任せてっ!」の彼女は、私より20歳も年上で、人生経験の差ゆえか、彼女の性格か、どんな人相手でも上手に対応する。だが私は、「チーフの肩書」とか、「一番社歴の長い自分が」とか、「正社員が非常勤スタッフに甘える訳には」といった、謎のプライドを持っていた。そうして、エベレスト級に高いプライドのてっぺんで勝手に高山病になり、息も絶え絶えだったのだ。少し周囲を見れば、共感の言葉やら、マニュアルやら、お清めの塩やら、たくさんの救援物資があったのに。
地面を睨み、「大丈夫です、申し訳ありません」と唱えつつ、励ましても解決しないし、なんならクレーマーごと世界が滅べばいい、と思っていた。我ながら、なんて滑稽、かつ厄介なんだろう。

あの日の「ひとこと」は、アイスティーに注いだガムシロップのように形はないけれど、じわりと確かに、そんな状況を変えた。

戦う相手は、クレーマーよりも、自分の見栄とプライドだったのかも

数日後、机の上にメモと、お茶の入ったカップが置かれていた。メモには、両手をふり上げた棒人間ならぬ、棒状のネコが描いてある。解読不能。振り返って差し入れの主らしい女性を見ると、にやっと笑って、親指を立てた。
いや「いいね!」じゃない、意味が分からない。
だが、気持ちは受け取った。ありがたくお茶をいただきながら、いつの間にか口内炎がなくなったことに気付いた。

クレーマーは消えないし、仕事はトラブルばかり。人間関係だって、まだまだ上手くはいかない。でも、戦わなければいけない相手は、クレーマーよりも、自分の見栄とプライドだったのかもしれない。
だから、仕事がしんどい時こそ、笑顔で言おう。「ありがとうございます。頼りにしています。」