以下に記すのは、私がこれからを生きるための動力である。
何度悩んでもいい。「やれない」と思ったら、何度でもこれを読み返せ。
駆動せよ。

「頑張れ」に反発した私は、いつしか頑張ることがいやになった

「頑張れ」という言葉に疑問を持ち始めたのは、いつのことだったかもう思い出せない。
誰かにそう声をかけられて、「いや頑張ってるんだけど」と反発する気持ちを抱いたのが最初だったと思う。だって、そうじゃないか? すでに頑張っている相手に「頑張れ」と言うのは、腹いっぱいの相手に「もっと食べて」と言うようなものではないか。頑張りが不足している、もっともっと頑張れよ、と言われているようで、いい気はしない。
しかしこのフレーズは世間では誰もが当たり前のように使う表現のひとつで、いろいろな場面で遭遇するものだ。しかも多くの場合は全くの善意で言っているのだから、タチが悪い。

「課題、頑張ってね」
いま課題やってるんだけど、見えないの?
「○○頑張れ!フレーフレー!」
だからその言葉嫌いなんだって。頑張ってるじゃん。

そんな風に反発の気持ちを持ち続けた結果なのか、いつしか私は頑張ることがいやになってしまったのだった。

数学の問題集を4周していた中学生のときの自分はどこへ

ところで私はきっと、他人と比べると物事を覚えていられない方だと思う。「頑張っていたこと」としてぼんやりと思い出されるのは、中学生の時の記憶。あの頃は家事の手伝いも勉強もどちらも当たり前のこととしてやっていて、頑張ってやる事という認識がなかった。でも今思えば、当時はとても頑張っていたと思う。

それからウン年が経った、2021年現在。学校の課題は締切当日にやり始め、それなりのクオリティで提出する。就活は未だ自己分析の段階で止まっていて、ガクチカすらも完成させていない。こうして現状を文字におこしてみると、切羽詰まるまで動き出そうとしないこの字面が中々にクズで、笑ってしまう。試験前に数学の問題集を4周も解いていた中学生のときの自分は、一体どこへ消えてしまったのか。しかし今だって本当は、頑張らねばならない事が山積みになっていることには気づいているはずなのだ。このままではいけないと思う自分も、確かにここに居る。

さてそんな風に、やらねばならないことをウダウダと低燃費でこなすだけの私だが、最近自分を変えてくれそうな表現に出会った。

「さて、やらなきゃいけないことをやるか」という気になってきた

「危機感で駆動するより、楽しいことで駆動しよう。自分のやりたいことを見つけ出せ」

私のとある“推し”が、私とは何の関係もない見知らぬ人間に向けて発した言葉だ。人間という生命体に対して、まるで機械に使うような表現を用いたものだ、などと大して働かない頭で考え、そこでやけにストンと腑に落ちた。難しいことや何か変わったことを言っている表現ではないと思うのだが、何故だろうか、わからない。ただ納得したと思ったらあとは早く、「さて、やらなきゃいけないことをやるか」という気になってきたのだ。

それでも厄介なのは、私が忘れっぽい性質をしていることだ。その瞬間は「よしやろう」という気になるのに、少し時間が経てば喉元を過ぎ去ったかのようにまたやる気をなくしてしまう。明日やればいいよ。

でも、今回は違う。こうして文章におこして、いつでもこの気持ちを思い出せるようにした。そもそも、今日やれなかったことをどうして明日やれると思うのか。そろそろ変わろうよ。楽しいことを後において、それを達成するために動くのだと考えよう。動力を伝えて、駆動せよ、私。

やる気を出せないでいた自分に、変わりたいと思わせてくれたきっかけ。これから先、行き詰まるたびに私はこのひとことを振り返っていきたい。