食べ方の違いが話題に上る食べ物は、数多く存在すると思う。
地域差、好み、調理工程、子供の頃に習った食べ方など、人それぞれに根付いた食事の作法。その中でも、私が一番衝撃を受けたのが、シチューの食べ方である。
ご飯をシチューの皿に入れてかき混ぜて食べるのが私の「普通」
私にとっての「普通」のシチューの食べ方を説明しよう。最初に言っておくと、私は基本、シチューはご飯と一緒に食べる。この時点で「信じられない」、「食べたことない」という人たちが存在するということすら、昔の私は想像できなかっただろう。
まず、出来上がったシチューを皿に取り分ける。だいたいカレーをよそう時に使うような、丸くて深めの皿である。次にご飯をお茶碗によそい、シチューと一緒に食卓に並べる。そしていただきますと手を合わせ、いよいよ食事の時間だ。私はお茶碗に盛られたご飯を、一切の躊躇なくシチューの皿に入れる。入れるというのは丁寧な言い方で、実際はぶち込んでいる。それをスプーンでかき混ぜ、ご飯がほどけ、シチューの中に沈むのを見届けると、混ざり合ったものをすくって食べる。これです、これこれ。
何故その食べ方をしているかというと、単純に、家族が昔からその食べ方で食べていたからである。とくになんの疑問も持たなかった。確かめたわけでもないのに、世の中の、私たち以外の家族も、友達もみんな、同じようにシチューを食べているのだと、不思議と思い込んでいた。だって、シチューって、カレーの亜種みたいなものだし。
世の中にはシチューの食べ方が幾多も存在することに気が付いた
私の「普通」がみんなの「普通」ではないと知ったのはいつだったか、はっきりとは覚えていない。前述したように丁寧に説明したわけではなく、何かの会話の流れで、うち、シチューとご飯一緒に食べるよ、シチューの中にご飯入れて、と軽く言うと、恐らく友達だっただろうけれど、会話の相手が、「えっ」とびっくりした様子を見せた。続いた言葉は、たぶん、「私んちはご飯と一緒に食べない」、「シチューだけで食べてる」……そんな感じだったと思う。
私はびっくり仰天した。その友達に、なんでシチューとご飯一緒に食べないの!? と詰め寄った気さえする。友達が「えー、考えたことない」と答えた気もするので、恐らく詰め寄ったのは気のせいではないだろう。
その一連の会話によって、私にとっての普通は、本当に自分自身のものでしかなく、全ての他人に当てはまるわけではないのだと思い知らされた。
一度その「誰にとっても普通」という認識が取っ払われてみると、世の中にはシチューの食べ方が幾多も存在することに気が付いた。主食としてのシチューやパンを浸して食べるシチュー、牛乳でご飯食べてるみたいなものでしょう、とシチューとご飯の組み合わせを避ける人がいることも知った。
食の好みは、「普通」の差違が現れる最たるものの一つだと思う
私の「普通」に共感してくれる人、驚く人、試してみると言う人、忌避する人も、みんなそれぞれ、自分の中に「普通」を持っている。
普通というのは、当たり前ということだ。私は、食事におけるその感覚を、家族の中で育んできたのだと自覚した。そして、「自分にとっての普通はみんなにとっても普通」という思い込みを飛び越えると、他人を、みんな同じ人間ではなく、一人一人違う人間として、見ることが出来た。
今思うと、何を当たり前なことを、と突っ込みたくなるが、これもまた、成長した私の「普通」に照らし合わせた判断基準である。私は、ここまで寄り添って、共に成長してくれた自分の「普通」を愛しているし、基本的には信じている。
食の好みは、「普通」の差違が現れる最たるものの一つだと思う。食欲、食事、食育など、これほど人によってそれぞれの文化が垣間見えるものもなく、食を通して、自分とは全く違う「普通」に触れるのは、とても楽しく、面白い。
とりあえず私は、これから先もシチューとご飯の組み合わせは鉄板であるし、それを否定したり文句をつけたり、馬鹿にしてくる人とは、静かに距離を置こうと思う。
これはわりと最近の話だけれど、シチューとパンを一緒に食べる美味しさにも、目覚めたりしている。