私はあの日、母に謝ることができなかったことを一生忘れないだろう。
私が謝りたい人、それは母親だ。幼少期に家の襖に穴を開けてしまったこと、あまりお手伝いをしてこなかったこと、高い学費を払って大学に進学させてもらったこと、たくさん我儘を言ってきたことなど、母に謝りたいことなんて探せばいくらでも出てくるのだが、その中でも特に謝りたかったことがある。

母が膵臓癌になっても、反抗期のような態度を変えられなかった

私は恥ずかしながら、反抗期を引きずり母に対して素直に接することが苦手であった。成人してもなお、反抗期が続いているというのは非常にみっともなく感じるが、家族に対する照れというか、カッコつけていたい気持ちが奥底にあったのだと思う。それは、母が病気を患ってからも変わらなかった。変わらなかったというか、自ら変えることができなかったと言った方が正しいかもしれない。
「君の膵臓をたべたい」という作品をご存知だろうか。私は名前だけは知っているものの、作品を見たことは無かった。しかし、母が膵臓癌だと診断され、それを打ち明けられた時ハッキリと感じたのだ。「母の膵臓をたべたい」と。
母はとてもパワフルで、明るく誰からも好かれる人間だった。まさに「母親」といったような性格で、今思えば私の中では無敵の存在だったと思う。人は誰しもがいずれ死んでしまうが、母が居なくなることは考えられないほど強く逞しい人間だったのだ。
しかし、母が膵臓癌と共存して生きていくことを決めた日から、母はどんどん痩せていった。背中をさすると背骨に手が触れ、足は一回りも二回りも細くなり、食べ物を口にする時間も減った。

謝罪のLINEさえも送っていなかったのは、治ると信じていたから

親元を離れていた私は、帰省する度に痩せこけていく母を見て胸が傷んだ。それでも素直に接することができず、余裕が無いはずの母に対して些細なことで私が怒ることもあった。きっと、心のどこかで「母が死ぬはずがない、きっと治る」と思っていたのだと思う。怒ってしまったことを後悔し謝ろうと思っても、直接謝ることは疎か、謝罪のLINEを送ることすらできなかった。
それから少し経ち、私が大学3年の冬に母は療養場所であった家を出て病院へ入院するまで衰弱し、1週間ほどで亡くなってしまった。当時は急いで帰省したが、電車に乗る前に訃報が届き、私は看取ることはできなかった。もうあの事を謝ることはできないのだ。謝罪のLINEを送っても、もう母には届かないのだ。私は母に謝ることができなかった事を、1年経った今でもひどく後悔している。
もし、皆さんに大切な人がいるなら、在り来りではあるが想いが届くうちに届けてもらいたい。事故、病気、災害、世の中には様々な出来事が存在し、そのせいで一生会えなくなる事がある。照れくさくても、自分の中のプライドが邪魔をしても、少しでも伝えたいと思うことがあるなら今すぐにでも伝えてもらいたい。私は、母が死ぬ前に私にくれた最後のメッセージを、私が息絶えるまで大切な人々に伝えていきたいと思う。