変わらない日々を変えていくのは、くだらない会話だとわたしは勝手に思っている。

相手が話しすぎてしまうくらい、「良くも悪くも」喋りやすいと言われるわたし

大学生になってから、人の話を聴くことが多くなった。内容は人それぞれで、恋愛や身体のこと、ちょっとした苛立ちから、疑問、過去の話と様々なことを聴いている。
つい先日、今まで話す機会のなかった人と話をしていた。
すると、「君は話聴くの、上手いよね。」と言われた。その人も少しだけ自分のことを語った。

わたしはいつも相槌を打って聴いているだけで、的確なアドバイスはしないし、一緒に考えることもほとんどしない。ただ、「うん。」「そうなんですね。」と本当に相槌を何度か打つだけだ。喋らないところについては、できるだけ追求をしないようにしている。ぽつぽつと語られる内容に耳を傾けるだけ。時間が経って、「ありがとう。」なんて言われると、「なんでみんなわたしに喋ってくれるんだろう。」と思うことがある。その人に訊いてみることにした。
するとその人は、遠くを見ながらこう言った。
「良くも悪くも喋りやすい雰囲気を纏ってるんだと思うよ。」

その人が言った「良くも悪くも」という部分に思い当たることがいくつかあった。愚痴関連の話を聴くと、吐き出したいものを吐き出せたことにより、リピーターになる人も現れるようになった。わたしが否定の言葉を言わないから、話し手は好きなように話せる。そのせいからか、相手は話し過ぎてしまうーー色々なことを吐露してしまうのだ。別件の苛立った話や苦しかった思いなどが、連想ゲームみたいにつながってしまい、それを全部吐き出してしまう。

「おいしかったごはんは?」友人との何気ない会話に、これまで何度も救われた

人の話を聴くのは好きだが、愚痴だけを吐かれるのは好きではない。それだけを目的にされると、他の人とのコミュニケーションにも影響が出てしまうこともある。だからといってコミュニケーションを今後一切取らない、という選択肢はわたしにはできない。わたしは人と喋るのが好きだからだ。だからこそ嫌になるときもある。情報過多で頭が他人のことでいっぱいいっぱいになって、押しつぶされそうになるのだ。

そんなわたしを救ってくれるのも会話だ。わたしが愚痴を吐き出し終えると、友人は決まってある話題を提供してくれる。
「最近読んだ本で面白かったのある?」
「おいしかったごはんは?」
「おすすめの音楽とかある?」
変わらない日々を少しずつ変えていくきっかけについて焦点を当ててくれるのだ。何気ない話をすることで肩の荷が下りるときがある。話を振られると、案外話せる自分がいる。何度聞かれても、わたしは以前とは違った答えを喋ろうとする。こういった一見くだらなさそうな会話にこれまで何度も救われた。

愚痴を生活の一部として切り取ることで、日々をイイ感じに変えるきかっけになるかも

日々を過ごしていくと、嬉しいことも楽しかったことも悲しかったこともそれぞれ溜まっていくだろう。人に共有したい嬉しかったこと、人に話すことで救われるかもしれないこと、どうしていいかわからずとりあえず人に相談したいこと……いろんなことが日々を作り上げている。苦しかったことだけに焦点を当ててしまうと、ネガティブな波に飲まれることもある。
喋りやすい雰囲気を纏っているのは、わたしにとって悪いことではない。話すことで楽になるのなら、わたしは聴こうと思えるからだ。嫌になったら休憩することをわたしは知っている。

だが、愚痴のみであるなら聴きたくない。
そう思っていることをわかっているのなら、わたしが誘導するのもアリなのかもしれない。きっと相手は愚痴を話して肩の荷を下ろすことだけで一杯だろうから、わたしがその肩をより柔らかくマッサージしてみる。愚痴だけを目的とさせず、終わりくらいはお互いのテンションをあげるためにくだらないことでも話して、笑ってお開きにしたい。
悪いことだけをピックアップするのではなく、生活の一部として切り取る。それは、日々をイイ感じに変えるきっかけくらいにはなるかもしれないし、相手のことを少しだけでも思える余裕も生まれるかもしれない。