中学生の頃、私は自分のことがあまり好きではありませんでした。それは、自分の感情のコントロールができずに他人に迷惑をかけてしまう、ということが理由です。自分勝手なんです。勝手に落ち込んだり、勝手に上機嫌になったり。

本当の自分を見せないためいつも笑って過ごし、そんな自分も嫌い

そうして、他人に迷惑をかけて生きてきました。そんな自分が嫌いだったから、どうにか感情を我慢し、自分を押し殺して、誰にも本当の自分を見せないように、迷惑をかけないように、いつも笑って過ごしていました。
そしたら少しは、自分のことを好きになれるのかなと考えていましたが、心にはしっかり穴が開いてるのです。心からの喜びも悲しみも痛みもなく、どうしたらいいか、わかりませんでした。
「いつも笑っているから心配、大丈夫?」と逆に心配され、「ああ、また他人に迷惑をかけてしまっている」などと思い、さらに自分が嫌になりました。何とか心配されないように、「大丈夫!」と笑顔で返すことが増えました。「誰にも迷惑をかけない大丈夫な人間」を演じるうちに、自分が誰なのか何者なのか、はっきり分からなくなり、気づけば自分のことは、嫌いでも好きでもありませんでした。
悩んでいるのかさえも曖昧でしたが、何かすっきりと解決する方法があるのだろうかと考えていました。でも、時は待ってくれない。

「私は私!」友人の愚痴が私の心にあいていた穴を埋めた

私は高校生になり、新しい友達、先輩もたくさんできて、生活自体は充実していました。そんなある日、友達がイライラしながら教室に入ってきて、愚痴をこぼしました。
「もう、私のこと馬鹿にしてるんやわ。」部活の先輩と、面談らしいものをしてきたようだったのですが、その友達は先輩が自分のことを全然わかっていない、と言いました。「私のこと決めつけてるんよ、『あんたはこういう人間や。』って。」
それは、先輩が友達に強い前向きな期待をもってのものなのか、それとも可能性に見切りをつけていることから発せられたものなのかはわかりませんでしたが、多分後者だったのかな、イライラしていたということは。
でもそんなことより、私はその後友達が言った言葉に、すっと心にあいていた穴が埋まったような気持ちがしました。
「あのな、楽しんでる時の私も、落ち込んでる時の私も、真面目な私も、はっちゃけてる私も、全部、私は私やねん!!」早口でしたが、堂々と、はっきりと、その子は、どんな私もそれは全部私なんだと言いました。
自分自身をみつめ、自分のすべてを受け入れている友達に、今まで生きてきた私は、励まされました。あの時もあの時も、全部ぜんぶ自分だったのだと気付かされた瞬間、置いてきた感情がブワッと目の前から風が吹くように、私の心を通りぬけていきました。

「ありのままの自分を受け入れること」。は私の人生のテーマ

ありのままの自分がここにいて、それが全て自分なのだということに気づいた私は、今1人の社会人として、清々しく生きています。あの時、友達が発した言葉は、単に愚痴をこぼしただけ。しかも別に、私に対して言った言葉ではなかった。けれど、私はあの言葉をきっかけに、自分の全部を受け入れることができたと思っています。
何か変わったかという大それたものではないけれど、考え方が大きく変わりました。どんな私も、私以外ではないのです。自分が分からない、そうやって考えて悩む私も、私。過去にどんなミスをしたって、今ここにいる自分が全てで、それを一番わかってあげられるのは、自分自身。
人に迷惑をかけずに生きていける人なんかいないし、感情のない人もいない。そのままの自分を好きでいればいいんだと、あの時の友達のむっとした顔を思い出しては、私は笑顔で自分を受け入れることの大切さを実感するのです。
ちなみに、その友達は、割といつも感情がむき出し。でも、私はその友達のことを嫌になることはないし、そこまで迷惑ではないなあと思った時に、今までの私の周りにいた人たちも、私に対してそこまで迷惑だとは思ってなかったのかもなあと思います。
「ありのままの自分を受け入れること」。ちょっとかっこよく表して「love myself」。 これは私の人生のテーマです。