「別れようと思う。俺は決めてるから。」
天気予報にはなかった雨のように、それは突然に降りかかった。あまりの唐突さに驚いた私が絞り出した言葉は「いいんじゃない?」だけだった。いいわけがない。今までの私たちは全部嘘だったというのか。
彼と出会ったのはSNSー
ロックバンドのライブに行くことが趣味だった私は、そのSNSからアーティストの最新情報を得ていた。
近場に住んでいる共通の趣味の人たちとの交流ツールとしても使っていて、共通の趣味というだけで、年齢も性別も経歴もバラバラな人間が数十人集まったが、その中で彼と私だけ同い年だった。すぐに意気投合した。
お互い、趣味友達がいればそれでいいというタイミングに出会ったので、男女の意識は皆無、それどころか「男女の友情」を信じ切って大親友だと豪語するほどにお互いを信頼し、本当に仲良くなった。
しばらくして。
二人とも当時の恋人と別れ、よく遊ぶようになった。そんな時、彼が心を病んだ。私は見ていられず彼をなんとか外へ連れ出したりして、少しでも生きるのが楽になるようにと、出来る限りのことをした。
奇しくも二人きりの時間が増えたのだ。
そしてある日。彼の方から交際を申し込まれた。私はすぐに返事ができなかった。シングルマザーである私と付き合うという事は、彼に色々我慢をさせるのが目に見えていたからだ。
信頼しているからこそ、長い時間をかけて彼と面と向かって話し合った。
「あなたの事は人としてとても信頼しているけれど、私からあなたにしてあげられる事は限られてしまう。独身の女の子と付き合うような関係にはなれない。」
と、いかに茨の道であるかという話を散々したにも関わらず、彼は諦める事なく私に聞いた。
「その人生の中で君自身の幸せはどこにあるの?」
悪気がないというのはなんと残酷なんだろうと思った。それと同時に返す言葉をなくした。
我が子の幸せ、親の幸せ、友人の幸せな姿を見ていられればそれでいいと、どこか諦めている自分がいた。彼がさらに続けた。
「俺が君を幸せにするのはどうかな?」
その一言で信じてみようと思った。この人となら、そんな未来を見られるのかもしれないと。
幸せな日々とそれが崩れていく日々
それから私たちの交際は始まった。彼の仕事の関係で遠距離恋愛だったが、とても幸せだった。彼の優しさには底がなく、いつもあたたかく包んでくれていて、サプライズで会いに来てくれたりプレゼントを送ってくれるような、絵に描いたような恋人だった。
趣味のライブも旅行もたくさん出かけたし、子供と過ごす時間をたくさん取ってくれたおかげで子供も彼のことが大好きだった。私の両親からの信頼もあって一緒に暮らすことになり、やっとここまで来たねと笑い合って、私たちは早々に準備を進めていった。
一緒に暮らし始めて、とても幸せだった。
毎日焦がれていた人と一緒にいられる、ただそれだけで何でも頑張れる気がした。実際、以前より頑張るようになっていた。笑う事も増えたし、こんなに穏やかに眠れるのかと感動したのを今でも覚えている。会話がなくても彼が横にいる、それだけでよかった。
それでも人間はいつしか慣れてしまう生き物である。
今までしてくれていた事や、かけてくれた言葉、お互いの疲れた顔や空気に慣れてしまって、言わなくてもいいような言葉を吐くようになった。
そんな相手と一緒にいたいわけがなくて、二人の距離は少しずつ少しずつ、山に降り積もった雪が解けて川に流れていくように、ゆっくりと確実に、二人の空気を澱ませていったのだ。
笑うことが減り、会話が減り、一緒に出かける日が減り。音もなく溶けゆくような崩壊が始まっていることに、きっと彼は気づいていたんだろう。色んなものが彼の負担となり、疲弊してしまったのだ。
この辛さは未来で傷付いた誰かを癒やすための試練と思おう
そして、あの日。
ついに言われてしまった。街はキラキラと輝き、人々は少し笑みをこぼしながら足早に大切な人のところへ急いでいる。
目も合わせずに彼は言った。
「別れようと思う。俺は決めてるから。」
人って、驚きすぎたり処理できないことが起こると、本当に止まるんだな。と、冷静に分析するくらいには動揺していた私。
「いいんじゃない?」
としか返せなかったが彼の決めた事に同意しただけで、私の気持ちや話し合う機会には有無を言わせないような空気の中で、その一言が精一杯だった。
同棲を解消するまでの一ヶ月半、感情が不安定すぎて毎日泣いていた。寝られなくなって、食べられなくなって、生きるだけで精一杯だった。切れかけの糸が一本ギリギリ繋がっているような、そんな。「限界」という言葉がお似合いな状態で、確実に生き損なっていた。
そこまで堕ちてしまってもなお、彼のことがそれほどに大切で愛しているんだ、と再認識してしまっている自分が情けなかった。そうしてただ息をしているだけのような日々を過ごしている私に、友人がくれた言葉がある。
「神様が与えた試練なんだね。君なら乗り越えられるだろうってさ?そうして乗り越えられたら、いつか君の前に同じような悩みを持った人間が現れる。その時『あの時辛かった、苦しかったって思いながら乗り越えた壁は、この子を救う力をつけるための成長過程だったんだ』って思えるよ。大丈夫、私がついてる。」
この言葉をもらった時、スッと納得した。
言ってくれた友人もそうだが、私もそうやって乗り越えた壁がいくつもあった。そうだ、いつか助けたい子がきっと目の前に現れるって事なんだろう。たくさん泣いたけれど、彼にはたくさんの幸せと学びをもらったのだ。これからの人生において必要なものを分け合ったのだろう。お役御免、という事か…。
いつか、何かの拍子に、彼がここに帰ってきてくれたら。なんてまだ思ってしまうけれど、そんな気持ちを抱えながら生きていくのも悪くない。
その時見上げた空は、私の気持ちのように晴れ渡っていた。