わたしが働く理由。
それは生きるためだ。
…そう言ってしまうと、それは当たり前だと思われてしまうだろう。生きるのにはお金がいる。生活するためには稼がないといけないのだから働くのは当然だ。そう思われてしまうだろう。
働きながら成長できるかどうか。これがわたしの就職活動の軸だった
でも、わたしにとって「生きる」とはそんな虚しいことではない。生きる、というのはただ息をしていればいいのではない。
わたしにとって「生きる」というのはわたしが存在する意味を感じ続けられることなのだ。
就職活動をしたのはもう7年も前のこと。
その時に一番大切にしていたのは、“働きながら成長できるかどうか”だった。朝から夜まで過ごす会社。社会人にとって、一日の一番長い時間を過ごす会社。定年まで勤めるとしたら人生の大半の時間を過ごす会社。
だからこそ、その時間そのものが、会社にいる時間そのものが人生になってしまう可能性がとても高い。会社にいた自分がまさに自分だったとなってしまう可能性がとても高い。
人生を振り返ってみた時、入社した瞬間と、そこを去る瞬間でめくるめくほど別の人間になっていたい。お金をもらいながらただ生きているだけなのに、会社に言われたことを必死にこなしていただけなのに、結果的に“ものすごく”レベルアップをしていたい。
仮にそのために浴びるほどにノルマがあったとしても、それを通して浴びるほどに成長したい。それがわたしの就職活動の軸だった。
朝早くから夜遅くまで働いて、資格もたくさん必要な会社に勤めている。今が一番幸せだ
わたしは結局、朝の7時から夜の8時まで働いて、資格もたくさんとって、日々専門書を読み続けても、全然足りないような会社に勤めている。周囲にはキツくない?ストレスがあるんじゃない?と言われるが、今が人生で一番幸せだ。
入社してから直属の上司になった人にこう言われたことがある。
「俺の言うことを聞け。一つ残らず素直に聞け。そうしたら一年後、ここにいる誰よりも知識も経験もある、優秀な社員にしてやる。」
普通の人が聞けばパワハラまがいの発言だろう。
しかし、わたしにとってはクラクラするほど魅力的な言葉だった。いかに辛いことや過酷なことが待っていたとしても、それを乗り越えさえすれば、一年後誰よりも優秀な社員にまで成長できるのだ。完成図とその期限が見えている苦痛なら、そしてそこに成長が伴うのなら、わたしは恐怖よりむしろ恍惚を感じるタイプの人間だ。
ただ息をしているだけの人生の方がよっぽど怖い。何も得ずに何も成長せずに、生きるコストを稼ぐだけで時間が過ぎて、気づけば棺桶の中にいる人生の方がよっぽど怖い。
昨日よりも成長した自分に。歳をとるのは劣化ではない
自分で考えて、工夫して働くことももちろん大切だ。
けれど、大学でふわふわと生きていただけの、何の素地もない自分が、考えて工夫しただけで何とかなる仕事などよっぽど怖い。会社の与えてくれる成長を浴びて、基礎が出来てから、初めて工夫することを許される瞬間こそが最も楽しいのだ。成長したと感じられるのだ。
考えてみれば、「自主性」という名の「放置」を受けていた大学時代が一番ストレスだったかもしれない。あの4年間で、わたしは自分の思いつく限りの興味に手を伸ばし、追求して過ごしたけれど、それは所詮自分の範囲から出ていない。
もっともっと浴びるほど成長を与えてほしい。このトンネルを抜けたら別の人物になれるというワクワクがほしい。自分の力だけで手の届くような人生はまっぴらごめんだ。
わたしが働く理由。
それは生きるためだ。
生きている、今確かに生きていて、昨日よりも成長した自分になっている。歳をとるのは劣化ではない。日に日にレベルアップをしているのだ。そんな実感を持つためだ。それを感じさせてくれる会社に就職できたことが今尚わたしの生き甲斐になっている。