就職し、働く嬉しさが止まらなくなった
毎晩12時に寝る。枕元の電気を消して、布団の匂いに包まれるうちに、次に目が開くのは6時30分だ。7時15分に玄関を出ればいいから45分まで寝よう。前日寝る前に準備しているから、準備は30分で済む。
去年の4月から社会人になって、そしてコロナのおかげで会社と自宅だけを往復している。週3の在宅勤務の日は家から出ない。
同じ時刻のバスに乗って、帰っての繰り返し。業務は毎日違うけれど「仕事」として見れば一緒。
朝から晩まで繰り返し、繰り返し。それが私にとっての仕事だ。他の人からしたらとてもつまらないものに見えるかもしれない。でも、それが性に合っていて、自分にとっては「仕事」をしていることが大切なのだ。
今のところ大学生の時に想像していたほど仕事をしたくないとは思っていない。
一つの企業で働いてみると、その視点から社会の動きがわかり始めてわくわくする。
例えば、私が伝票に書く数値は自動車の部品を揃えるために必要で、それは海外の情勢や国内の景気に左右されたり、将来を予測したりしている。私が0を一桁間違えると大金が動く(間違えないのが一番だ)。想像するとちょっとにやける。
働き始めてから、働いていない自分に納得できなくなった。休日も働く、とかでは決してない。土日はしっかり休んでちょっとしたお菓子作りしている。
ただ、一度働きに出て企業で役割を与えられると(或いは自分で探し出すと)、それがどれだけ小さくても、働ける嬉しさが止まらないのだ。誰でもできる業務やものの5分で終わってしまうものでも嬉しい。
自分を認めるために、働く
就職活動をしていた頃よりも仕事について考えるようにもなった。
よくある就職前とのイメージのギャップもなく、上司には恵まれた。質問をすると、手をとめてこちらを向いて答えてくれる上司。
本当にいい職場環境なのに、短い通勤時間の中でさえ働いている理由について考えてしまう。
それはネガティブ、ポジティブとかではなく私にとって辿り着かなければいけない答えだった。
けれど、この企業に入ると決めた理由や履歴書に書いた挑戦したい業務はもはや忘れてしまっていて、そもそもどうして働くと決めたのだろう。
生活のためは大前提として、もう一つ、自分の存在を自分で認めるためだと思う。
学生時代、大学で授業を受けるのも楽しかったけれど自分の生きる社会に関わりたいと思った。
学んだことを他人のためにも活かせる機会が欲しかったのだ。それと同時に、生きていくために自分を認めることが必要だった。
なんだか大きなこと書いているかもしれないが、きっと社会人になってしばらく経ったことと、就職活動を一緒に頑張った友達とLINEをしていたら大学時代の自分を思い出したからだ。
誰に認められなくても、やってきたことは誇り
元々人と比べてしまう性格だった私は、3年次の就職活動が始まると更にそれをこじらせた。
何社も不採用で、履歴書に書いた何もかもを認めてもらえないのだと毎日が悲しかった。
就活を少し休もうと決めた。
その期間に改めて自分の履歴書を見たら、採用されるために書かれた私の過去が自分にとってすごく価値のある思い出や経験なのだと気が付いた。
私のやってきたことはいくら選考で認められなくても私にとっては誇りだった。
私じゃなくてもできた仕事だけれど、私にやらせてもらえている仕事がある。
それこそコピーとかスキャンを取るだけでも、真直ぐ綺麗に取れるようになってすごく嬉しい。そんな当たり前のことは誰にも褒められないけれど、何もできないで入社した自分を認めるための要素になっている。
伝票や請求書を書くのだって「生産性がない」ものだけれど、巡り巡って社会に必要なものに生まれ変わるのだ。
そんな仕事をしている自分のことを私は認めている。
人に認められることは嬉しい。けれど、必ず自分に寄り添う存在は自分しかいない。
口座に貯まっていく給与より、自分を認められるようになっていることが幸せだ。
自分を認める方法が、私にとっては働くことなのだ。