じぶんの想いを伝えられない。人見知りだった幼いわたし

小学生のハルカちゃんは極度の人見知りだった。
心を許した友達と話すので精一杯。気持ちを素直に伝えるなんてもってのほか。

たとえば授業が始まる少し前。
クラスメイトに「教科書を忘れたから貸して」と言われて貸した。
もちろん授業中、わたしは教科書がなくて先生に怒られることになった。

たとえば放課後、お小遣いを持って遊びに行ったとき。
「あたしのお金ハルカちゃんのお財布に入れて」と言われて入れた。
最終的に「返して」とお金をほとんど取られることになった。

たとえば学校で音楽コンクールに参加する演奏メンバーを募集していたとき。
参加したかったけど、友達に「そんなのやってる暇ないよね」と言われてすぐに頷いた。わたしが演奏会に出ることはもちろんなかった。

思えば友達は塾に通っていて、放課後に練習する暇などなかったのだから当たり前だ。
一言、「わたしは時間があるからやりたい」と伝えればよかったのに。

たとえば……いや、もういいか。

大人になっても、じぶんに対する「もどかしさ」は変わらない

気持ちを伝えることが苦手だったハルカちゃんは、それからも物を取られたり、いじめられたり、濡れ衣を着せられて先生に怒られたり、やりたいことを諦めたりを繰り返していた。何も言えないじぶんが嫌で幼いながらに落ち込むことも多かった。

年齢が上がるごとに人は成長するもので、少しずつ想いを伝えられるようになった。嫌なことは断れるようになった。これがやりたいと意見できるようになった。喧嘩もできるようになって、次第に空気を読めるようになった。

怒らせないように、悲しませないように、相手が喜ぶように接しよう。そうしていたら人の顔色を窺いながら話す大人になっていた。意志を伝えるときにはものすごくエネルギーを消費するし、相手の反応次第では言わなければよかったと後悔して、うまく伝えられなかったことにやっぱり落ち込んだ。わたしは小さなころから、じぶんでじぶんに落ち込んでばかりなのだ。

出合ったコピーが教えてくれた。下手でもいいから伝えようって

ある日、落ち込むわたしを励ましてくれる言葉に出合った。
ジブリの名作『魔女の宅急便』のキャッチコピー『おちこんだりもしたけれど、わたしはげんきです。』だ。机に手を乗せてつまらなそうに店番をするキキの隣に並んだこの言葉は、わたしの中にスッと入ってきて、ざわついた心を落ち着かせた。

「この前、悲しいことがあったんだ。でもね、嬉しいこともあってね……!」

たぶんわたしは落ち込んだり笑ったりする他愛もない日常を、誰の目も気にせず言葉にして、友達や家族に聞いてほしかったのだと思う。このコピーはわたしの心の底にある本音なのだ。

それに気づいてからは、下手でもいいから想いを伝えてみようと勇気を持てるようになった。たとえ伝え方が下手だったとしても、伝えられて良かったねって、じぶんを許せるようになった。

まるでキキがくれた魔法のように、わたしはコピーに助けられた。だからもし今、落ち込んでいる幼いハルカちゃんに会えるなら伝えたい。じぶんを責めないで。大丈夫。だってね。おちこんだりもしたけれど、わたしはげんきでやってるから。