小学生のとき、親の仕事についてインタビューするという宿題が出た。
母に働く理由を聞いたら「は?何いってんの、生きるため以外に理由はないでしょう」とキレ気味に言われた。

仕事をするのは生きるため。皆生きるために嫌々働くものだと思っていた

マズローの欲求5段階説で最も低次な欲求は「生理的欲求」。それが満たされると「安全の欲求」、「社会的欲求」、「承認欲求」の順に上がっていき、ピラミッドの頂点の「自己実現の欲求」に到達する。
働く理由を、自分のやりたい仕事だから、とか、社会に貢献したいから、とか言える人は「自己実現の欲求」の段階にいて、恵まれた人なのだと思う。
うちは裕福でなく共働きで、食べていくという「生理的欲求」を満たすのに必死だったのだろうが、母の発言を聞いた私は、皆生きるために嫌々働くものなんだ、と解釈した。

就活を意識するようになったころ、周りの先輩が興味のある業界ややりたい仕事で就職先を決めた話を聞いて、「生きるため」以外の働く理由が存在することに驚いた。過去に親の反対で漫画家になる夢を諦めた経験もあり、やりたい仕事に就くという選択肢は自分にはないものと思っていた。

実家の状況を考えて収入の良さそうな業界を選んだけれど、それでも自分の就活の軸に沿った、興味の持てる仕事に就くことができた。面接で語ったピカピカな志望動機に嘘はなかったものの、そんな青臭い志は数年経てば失われ、嫌々働くことになるだろうと思っていた。それなのに、4年経った今も社会やクライアントに貢献したいと真顔で言っていることに、自分でも驚いている。

なんで私はこんな辛い仕事をしているのか。対価の分だけ仕事の負荷は重かった

就職後は金銭感覚が大きく変わった。学生のころバイト代を必死に貯めて行った海外旅行は、長い休みさえあればいつでも行けるようになった。友達とのディナーでも、学生時代には敷居が高くて入れなかったような店に入るようになった。
物欲が少ないこともあり、自分ひとりのお金に苦労はなかったので、父が税金やローンを滞納するたびに快く数十万を差し出した。大学時代に受け取っていた奨学金の余りも含め、生活費以外に数百万円が渡ったことになる。
周りの友達に打ち明けると深刻に心配されるし、母が独身の頃は実家に1円も入れたことがなかったと知って腹を立てたこともあったが、途上国の子どもなら家族のために労働することが当たり前なのだと、自分の状況を正当化させていた。

一方、対価の分だけ仕事の負荷は重かった。
プロジェクトのサブリーダーとして役員クラスのお客様と直接話す立場になったとき、ついにバランスが崩れた。
なんで私はこんな辛い仕事をしているのか?お金をこれ以上貯める理由もないから、もっと楽な仕事をしてもいいのではないか。いや、お父さんの借金が…。
ふいに、私は実家の借金を返すために生まれてきたのか?という考えが生まれ、頭の中が真っ暗になった。

人間を前進させるのは欲なのかもしれない。どのような未来が待っているのか楽しみだ

矛盾するようだけれど、暗い考えから私を助けてくれたのも仕事だった。
私の話に納得して、お客さんの意識・言葉・行動が変わっていく。そして私自身も、お客さんの熱い志に突き動かされて、さらに力を尽くす。
やりがいを確かに感じていた。私はこの仕事が好きだったんだな。

私は自分が求めていたのは「自己実現の欲求」を満たすことだったのではないかと気づいた。恵まれている。
これまではその欲求を仕事で満たしてきたが、どんなに好きな仕事でも辛い場面は必ずある。私は仕事以外にも働く活力になるものを持とうと決めた。これのために頑張れるという、何かがあるといいなと。
パートナーや子どもが生きがいだという人も多いのだろう。私もいずれそうなるのかもしれない。まずは今、実家を出てこれまで諦めてきた一人暮らしをしてみよう。誰にも遠慮せず自分のためにお金を使って、住みたい場所に住み、欲しいものを買い、食べたいものを食べるのだ。

欲が人間を前進させるのかもしれない。一つ、また一つと浮かんでは満たしていく先にどのような未来が待っているのか、私は楽しみになってきた。