小学生時代からの同級生の一言が、未だに火傷痕のように残っている。
その子とは中学時代こそ頻繁に会ったり、喋ったりはしたが、成長するにつれ会う機会はどんどんと減っていった。物凄く仲の悪いわけではないが、私が大学生、彼女が社会人として働き出していた頃には、思考や思想は全く違うように育ってたのだと、今になってこそ思う。
勿論、全く同じ思考の人間、変わらない人間はそうそう居ないと思う。結婚を望む彼女と、趣味を謳歌したい、自分の我儘を貫きたい私とでは、向かう方向が違う電車に乗るようなものだ。それを無理やりこっち側に乗れ、と言うつもりはないけれど、彼女は少し違うようだった。
久々に会って話したとき、彼女はさも当たり前のように言ってきた。
『結婚はいつかしたくなる、子どもだって欲しくなる。それに子どもが居ないこと、親に申し訳ないと思わないの?』
綺麗に三発のパンチが私にむかってきた。
私はヘラヘラとひとりで死ぬときは死ぬしかないと答えた。
結婚も出産も「普通」だと押し付けられた言葉がつけた火傷痕のような痛み
このやりとりは一言一句同じではないけれど、彼女は結婚も出産も『普通』だよ、と押し付けてきた。結婚を勧めたりするならまだしも、結婚も出産もしないとだめ、らしい。
彼女のジョークかもしれない。けれど、それが、後々になって火傷痕の痛みのようにヒリヒリと効いてきた。
私が「そんなの多様性が」と反論したところで、独身女が喚いていると言われそうで怖くて何も言えなかった。ただ一人でも楽しいよと、私はヘラヘラしているしかなかった。
さらに辛かったのは孫の話だ。親に孫を見せてこそ立派なのだと言われると、胸が苦しくなる。
気にしなければ良い、と言われたらそこまでだが、私はどこかで引け目を感じているのだろう。
結婚せずに遊んでいる、などと罵倒されたわけでもないのに、罪悪感を感じる時もある。
でもじゃあ、周りの人が結婚してるから結婚する、と言うのは違う気がするのだ。
結婚を本心からしたくない人がして、それでいいのだろうか。出生率を少しでも上げようと子どもも産めば私の心は満足するのか?きっと違うと、それだけは断言できる。
自分で決めた生き方に責任を取るのは、世間ではなく自分だ
本人に直接言う勇気も、ことを荒立てることも嫌だから、ここに吐き出すしかないけれど、コレは私の意思表明である。
いつか結婚したくなったらするだろう、子どもが欲しいと思う時がきたら産むことも考えるだろう。それが遅いからといってその責任は世間が取るのではなく、自分が取るのだ。だから世間が、友達が私の人生にケチを付けるのはお門違いである。
私は、もしかしたらずっとひとりで生きるかもしれない。だから少しずつ貯金をしたり、ひとりでも死なないために行動をしようと決めた。
今や介護を自宅でするのは困難なことになりつつもある。プロへお金を渡して頼るのが一番ならば、お金さえ用意できたら子どもが居なくともなんとかなるのでは?
強がりかもしれないけれど、子どもに頼りきって迷惑をかけてもいいと生きるより、立派じゃん、私。そう言い聞かせるしかない。
幸いにも、私にはこの考えを肯定してくれたり、一緒に悩んでくれる友人がいる。この発言を言われたとき、その発言に怒ってくれた。
本当にそれは幸せなことで、私は嬉しくなった。
そう改めて思い出しながら、私は友人にお祝いを送った。あなたが子育てをする間、私は私にお金をかけてやります。私はその同級生ができないことをして、自分を労ったり、自分にお金をかけて溜飲を下げさせてもらうのだ。