私は何を隠そう就活生だ。

どこに行っても誰と話しても「今年の就職は大変だね」「大丈夫?」と、私にとっては羨ましすぎる安定した暮らしをしている人々に言われる。「そうなんですよぉ」と、返すけれど。
大手の企業では、エントリーが始まっていること、大学では就活講座が行われていること、何となく知りながら気づかないふりをしながら、「明日から、明日から」と過ごしていた。自分のことを嫌いになりながら。

答えを見つけたくて走り出したけど、立ち止まってしまいそうで怖い

私の夢ってなんだったっけ。
ドラマや映画の主人公でも、誰もが注目する大女優でも、大波乱な人生を駆け抜けてきたミュージシャンでもないのに、こんなことを考えている自分がおかしかった。「いいよな、あの人は」「私もこうなれたら」。ぐるぐるぐるぐる、誰も助けてくれない自分の頭の中で、こんなことばかり考えて。
生きていく意味とか、何者にもなれない窮屈さだとか、こんな田舎の小さな私が、世界に向けて大きいことばかり考えていた。

何か、答えを見つけたくて、ダラダラ、ゴロゴロな自分を捨てて、就活をするために走り出したはいいけれど、ふと我に返って、「なんのために生きるのか、なんのために頑張っているのか、その結果の先は?」など考えてしまいそうで怖かった。考えないように心にダムを造った。

好きなことをやって、それを喜んでもらえる。そんな単純なことでいい

ある日、大学のゼミ活動の一環でラジオ出演をしたとき、家族、おばあちゃん、叔母さんが連絡をくれた。忙しい日々の中、30分間の放送を聴いてくれて、感想をくれた。私のラジオ出演を喜んでくれて、褒めてくれた。そのとき何かが腑に落ちた。

そういえば、私は文章を書くのが好きだ。それは、幼い頃から、文章を書くと、家族やおばあちゃん、叔母さんがほめてくれたから。始まりは、小学生の頃、市のコンクールで賞をとった「銀河鉄道の夜」の読書感想文。「あなたは文章を書くのが得意だね」「上手」「よく書けてるね」と、やさしい笑顔で紡がれていく言葉たち。文章を書くことは、私の大切な人たちが褒めてくれるから、好きになった。そんな単純なことだった。
だけど私にとっては、それが鉛筆を握る理由で、紙に、私だけの言葉をつづっていく答えだった。文章が完成したときに思い浮かぶのはこの人たちだ。文章を書くこと以外にも、好きなことややりがいのあることをみつけてきた今、それを実行するときに思い浮かぶのもやはりこの人たちだった。もちろん、やり遂げたときにも。

「嬉しい」。それだけで、私は明日も心から笑って生きていける

私がラジオに出ているときに、いまだにガラケーを愛用しているアナログ人間の父が、ステレオの前で録音機を握って、私の声を録音している姿を思い浮かべると、帰りの電車で涙が出た。この人たちが喜ぶと、私はとても嬉しい。

「嬉しい」、それだけで私は明日も心から笑って生きていける。そんな簡単なことだったんじゃないか。頑張る理由も、答えも。生きる意味も。この人たちが、みていてくれる。褒めてくれる。喜んでくれる。私の心が満たされる。
生きてくってたぶんそんな簡単なことでいいんだよな。この先、たとえどんなところに行ったとしても、応援してくれる人たち。私が望むところにいけば、私が私らしくいれるところで毎日働くことができれば、この人たちはもっと嬉しい。そうすると私はもっともっと嬉しい。

ならば、私が今することは決まっている。もう見失わない。
明日も、この人たちのために頑張ろう。あなたたちが生きていてくれるから、私は、私のために、頑張れるんだよ。
私だけの理由と答えを持って、また明日も駆け抜けよう。