わたしは、ゲートの前に立ち尽くしていた。
チケットはもう手の中。前に進むしかないのはわかっていた。でも、怖くてたまらなかった。
みんな、「楽しい」と口をそろえて言うけれど、その「楽しい」は安全な楽しさなのか、代償のない楽しさなのか、不安で仕方ないのだ。
そこには可愛らしいキャラクターや興奮するようなアトラクションがたくさんあって、キラキラと輝く装飾にもうっとりするような場所だと聞いていた。まるで「夢の国」だと大人は教えてくれた。

広がる美しい世界に心踊るものの、ここにいていいのかと強まる警戒心

でも、もし、本当に夢の国だとしたら、不思議の国のアリスみたいに大変な冒険を強いられるのではないか、また、悪夢のように一度入ったらなかなか抜け出せないのではないか、と不安は増すばかりだった。

そんなわたしの気持ちは誰にも知られることなく、つながれた手は引っ張られ、その世界へ足を踏み入れることになった。
確かにその世界は美しかった。ハッピーでパワフルな色鮮やかな空間に、ふっと心が踊る瞬間がある一方で、ここにいてもいいのか、という警戒心も強まった。麻薬みたいな快楽とそれが切れたときの恐怖が隣り合わせになっているような感覚なのだろうか。
無邪気に喜べなかった。楽しいけれど、それはつくられた「楽しい」のような気がした。そして、この「楽しい」に慣れてしまったら、本当の楽しいに満足できなくなるのではないか、ここを抜け出したら、魔法がとけてしまったみたいに現実が色あせて見えるのではないか、いろいろな懸念が心を渦巻き、言葉にできないまま飲み込まれていった。

大人になった今、もう不安はないけど、あの頃の感覚も大事にしたい

気がついたら、家に着いていた。帰るまで起きていられずに寝てしまったようだ。疲れた顔の両親と満足気にぬいぐるみを抱える兄がいる、いつもの家だった。買ってもらった風船が幽霊みたいにぷかぷかと浮いていた。やっぱり、少し不気味だと思った。

 大人になったわたしはディズニーランドが、安心して「楽しめる」場所だとわかる。それは、「楽しい」の裏側にある人々の努力を想像できるからだ。そして、そのつくられた「楽しい」を求め、味わったからといって、現実の日々はそうそう変わらないことも知ったからだ。
でも、幼いわたしの「怖い」という感覚も大事にしたい。未知のものを誰かの評判だけで判断する危うさや、現実から逃げ出したくなる人間の弱さなどが、その感覚に見え隠れしている気がするからだ。
いつか自分の子どもとディズニーランドに行く日がくるかもしれない。そのとき、ディズニーランドは「楽しい場所だよ」と気軽に教えることはわたしにはできない。