最近私の中で、スウェットが2度目のブームを迎えている。
3年くらい前まで、スウェットは私の日常そのものだった。緊張して、精神的にファイティングポーズを取りがちな自分にとって、ゆるりとした服を身につけることは、身体のこわばりや息苦しさから開放されるための手段だ。
けれど、元カレの一言が呪いのようにわたしに取り付いて、それを堂々と身にまとうことを許さなかった。
他人の聞くことも大事。けれど、他人のマネキン人形になっていいの?
彼の悪意ない一言は、私がオンラインショップで服を選んでいるときに発された。それまで服装に無頓着だった自分が、大学生になって初めてお洒落に目覚めたのだ。当時のマイブームは、重たい形のスウェットにスキニーパンツを合わせること。そのときも、彼の隣でスマホの画面をスクロールし、運命の一着を探していた。
目についたのは、ヴィンテージのスウェット。肉厚なグレーの生地に、テディベアのプリントが施されている。「ずきゅん」という音が、脳内に響く。彼の目の前にスマホの画面を持ってきて、プリントの可愛さ、フードの形などを熱弁した。
彼は「ずっと思ってたんだけど」と前置きしてから、私の服装を静かに否定した。「もういい大人なんだから、カジュアルな服はやめたら?」と。
それから私の制服は、誰もが知るブランドのクラシカルなニットやシャツ、スカートになった。一気に大人っぽい装いになった私を見て、彼は喜んだ。
もともと年齢より上に見られがちな自分にとって、“多くの人が似合うと言ってくれる服装”は、間違いなく今の格好だ。みんなが良いと言ってくれるなら、それで良いのかもしれない。けれど、他人のマネキン人形になった気分が拭えない。
パートナーに「似合うかどうかは置いといて、着たいの?」と言われた
スウェットにダメ出しをくらってから数年後。私は当時の彼氏と別れ、違うパートナーとお付き合いをしていた。彼の職場は、離島の港町にぽつんと建っているカフェ。多くの常連さんがついているそのお店に、いつしか私も居候するようになった。
仲の良いお客さんのなかに、同い年くらいの女の子がいる。その子はフリーランスのカメラマンをやっていて、いつもゴツい一眼レフと編集用のMacbookを携えていた。「動きにくいのは嫌だ」と言う彼女の服装は、スウェットにランニングパンツ。
カジュアルの王道をいくような装いは、その持ち主にとても良く似合っていた。何より、身軽な格好で海岸や漁港を駆け回り、軽やかに笑う彼女が好きだった。
あるときパートナーから「ニットやスカートで動きづらくないの?」「スウェットにジーパンでもいいんじゃないの?」と尋ねられた。私は少し言葉に詰まった後「自分には似合わないと思う」と答える。彼は「ガハハ」と笑って「似合うかどうかは置いといて、着たいの?着たくないの?」と言った。
自分が好きな服を着ていると「自信と笑顔」に満ちていた
カジュアルな服装が好きだ。フォーマルで艶やかな服よりも、自分を解放してくれるスウェットが何十倍も好きだ。
何より「これだ」と思う服を着ている自分は、どんな格好でいるときよりも、自信と笑顔に満ちていた。そのことを、今までずっと忘れていた。
私は今、ベージュのスウェットを着ている。それはメンズのLサイズで、お尻までしっかりと覆うくらい大きい。フォーマルの対局にいる私は、きっと前の彼氏が言う「いい大人」ではない。
けれど、着たかった服をもう一度身にまとった私は、“なりたかった大人”でいられている。そのことが、とても嬉しい。