小さい頃、寝る前に何度も読んでもらったジャン・ド・ブリュノフの『ぞうのババール』のシリーズ。
森の中に暮らすぞうが、森を追われ町に出て、ぞうの国をつくっていく。
ババールは王さまに。パートナーはお妃さまに。子どもたちは王子さま、お姫さまに。
大臣、政治家、裁判官、パン屋、歌手、学校の先生……。
ぞうの国に暮らす誰もが、国のため、みんなのために、誇らしげに仕事をしている。当時の私は、働くことがどんなことなのかよくわからなかったけれど、こんなにたくさんの役割があること、それを自分で選べることにわくわくした。
未経験者の私。中々、門戸を開けてくれない出版業界
保育園でもらったアルバムの「大きくなったら、何になりたい?」という質問には、たいてい、当時はまっていたアニメの主人公の名が書いてあるのだが、先日、「ゆうれい」という答えを見つけてドキリとした。
すぐに感化されやすい私のことだ。どうせおばけの出てくるお話に夢中になっていた、というぐらいの理由なのだろうけれど、折しも不採用続きで自棄をおこし、世の中を呪っていたところだった。ずいぶん心が荒んだものだと背筋がうすら寒くなって慌てて襟を正した。
「本年度の採用は見合わせております」
中々、門戸を開けてくれない出版業界に嫌気がさしながらも、「採用」「編集者」「募集」と検索を繰り返す日々。おまけに「未経験」という単語を追加すると、ヒット件数は極端に下がってしまう。それでも、どこかに運命の相手がいるのではないかと淡い期待で妄想だけが虚しくふくらんでいく。
私は今年で30歳を迎える。
年齢的には経験者採用なのだろうが、経験がないので致し方ない。「新卒」に応募するのは詐欺ではないかと自虐的になりながらも、年齢制限ギリギリOKなのだから背に腹はかえられない。
とはいうものの、とうとうその機会すらなくなりつつある。
どの職場でも本気で自分を試した。そのどれもが私の生きた証
大学を卒業してから5年が過ぎた。
(ぼーっと生きてきたんじゃない。と、一応、慰めのような断わりを入れておく。)
5年。それは、本気でやっていきたいという仕事に出会えた5年。
そして、現実を知った5年だった。
「同級生たち」が「新卒」で入社をしていく一方で、バイトを転々としながら自らの意思でこれがしたいと思えるものを探し続ける私。大学卒業とともに「安心・安全」が保障されたレールは途切れ、だだっ広い荒野に投げ出された。そんな気分だった。
あたりまえのように決まった時刻に電車がやって来て、走り去っていく日本社会で、私は断線したレールの上をどこに向かっているのかわからないまま、もがいた。
いつまで待っても新幹線も、電車も通らなかった。
「短期間で仕事をやめているのは、なんで?」(あきっぽいんじゃない?)
職務経歴書に列挙されたつながりのないばらばらの経歴は、いかにもみすぼらしく不安を誘うのだろう。「この人ちゃんとした人なの?」そう訴えかける数々の目に、誰もが納得する理由を試行錯誤してつくりだしたところで、どこまで太刀打ちできるのだろうか。
私を測るもの差しは、いつも過去のあら捜しばかりに当てられた。
書類を埋め尽くす経歴の数々がさみしく光った。
だが、どの部分を切り取っても、それは全部私だった。
どの職場でも本気で自分を試した。そのどれもが私の生きた証だった。
合うも合わないも、できるもできないも、本気でぶつかりながら学んだからこそ、少しずつ私の役割が見えてきた。
やっとつながりだしたレールの上を再び電車がゆっくりと走り始めた。
どんなに遅くなっても編集者になることを誓う
「どこへ行っても大丈夫」背中を押して送り出してくれた人たち。
「楽しみにしているよ」編集者になって活躍する未来を応援してくれる人たち。
「捨てる神あれば拾う神あり」力強く励まし、そっと見守り続けてくれる人、人、人……。
働く中で夢を語れる人たちに出会った。
自らの夢を託してくる人もいた。
新しい職場で慣れずに緊張している時も、同じような経験をもつ先輩たちが緊張をほぐしてくれた。
それらはみな、過去も含めて今の私を肯定してくれた。
だからここで、私はどんなに遅くなっても編集者になって『ぞうのババ―ル』のような絵本を世に出すことを誓いたい。
「大きくなったら、何になりたい?」
この問いに多くの子どもがたくさんの可能性を想像し、喜びを味わえるように。
そして、多くの大人が胸をはって自分で見つけた役割を追い続けることができるように。