他人に優しくすることを、偽善だという人がいます。確かにと納得をする反面で、それは違うと反論したくなる気持ちが湧いてきます。

フェミニズムの修士論文を執筆中、ふと開いたTwitterで…

私は社会的弱者、特に女性に寄り添う仕事がしたいです。
そう思ったきっかけは、2020年の年末に私が修士論文を執筆していた頃に時間が戻ります。
先に私について簡単にはなしをさせてください。

私は大学を卒業した後一般企業に勤めましたが、そこで職場の人たちから日々女性性を強く求められることがたまならく苦痛でした。その理由を知りたくて、また社会から一度離れて学びたいと思って、二年も勤めず退職し母校の大学院の修士課程へと進学しました。
ですので、修士論文のテーマはフェミニズムです。私の専門は日本文学なので、昭和の女性作家を取りあげ、修士論文の執筆をしていました。
そして、年明けすぐの提出に向けて書いている時、筆休みにと開いたTwitterでその記事を見つけました。

某放送局のウェブ記事でした。数ヶ月前に逮捕された、生まれたばかりの我が子を殺し死体を遺棄した、当時就職活動中の女子大生に関する記事です。
記事の内容はしっかりとしていました。容疑者である女性が事件を起こした理由――内定をもらえないことへの焦り、気づいた頃にはもう堕ろすことが出来なかったこと、家族に相談できなかった苦しみ――から、同じように望まない妊娠をしたが支援団体に連絡を取り出産した女性の話、そして望まないタイミングでの妊娠を支援する団体の職員の話を交え、こうしたことを社会全体で支援していかなければならない、という内容でした。

そもそも、父親は? なぜ彼女ばかりがこうも責められるのでしょう

同じく女性の身体を持つ身として、これは決して他人事ではないことは、報道を見たときから分かっていました。だからこそ、軽い気持ちでコメント欄を見て、そこにあった「自業自得だ」の大合唱に震えました。
男女関係なく書かれたそのリプライは、自己責任を高らかに謳っていました。早い段階で気づくことはできなかったのか、避妊に失敗した自分が悪いなど、そこにあったのは議論ではなく、ただの中傷でした。

早い段階で気づくことが出来なかったから堕ろすことができなかったのだし、避妊に失敗することは誰にでも可能性があることです。そもそも、子どもの父親は?なぜ彼女ばかりがこうも責められるのでしょう。

人生は何でも起こりえます。テレビやスマホ越しに起きている出来事に、いつ自分が巻き込まれるか、また、いつ自分が加害者となるかは全く分かりません。それは未然に防げることもあるし、気づいたら後戻りができないこともあるでしょう。防げたはずの悲劇を事前に防ぐことが、社会支援の役割の一つのはずです。記者の意見は至極真っ当だと思います。

それなのに、そのいくつものコメントは容疑者の女性の罪を一方的に断罪し、正論をぶつけて日々の憂さ晴らしをしているようにしか見えず、私はその後修士論文に手がつかないほど頭が怒りでいっぱいになりました。

偽善と後ろ指を指されても。少しでも相手を助けることができるのなら

そして同時に気づいたのです。これから私が社会にまた戻り、戦っていく相手はこういうものなのだと。自己責任を謳い、相手の間違いを許さず断罪し、正しいだけの正論をぶつけているだけの、何も変えることのできない社会の弱者に対する言葉の暴力。それが回り回って自分の首を絞めていることにさえ気づかず、自分には関係ないと切り離してしまうことの恐ろしさ――。
だから、私は弱者に寄り添う決意をしました。

それを偽善と後ろ指を指されることになっても、それで少しでも相手を助けることができるならば。自己責任論を振りかざし、弱者を踏みにじるよりも、ずっといいと思ったのです。
これが正しいのかどうかの結果は、きっとすぐには出ないでしょう。でもいつか必ずどこかに辿りつくと信じて、今日も私は弱者に寄り添います。